レッズ戦で疲れた心身を癒すため、土曜の夜から日曜にかけてはDVD(ドゥ・ビデオ・ドゥ)を観てました。
(1)「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」(監督:岩井俊二 1996?日本)
(1)テレビドラマか何かだったらしい本作。正直、岩井俊二は好きになれないのではないか、と観もせずに漠然と思っていたKDM。最初から「映画」として撮ったものを観れば感触も変わるかもしれないという留保はあるものの、やはり不安は的中。センスは良いとは思うし、奥菜恵、山崎裕太はじめ(当時まだまだ子供と言って良い年齢)キャストの真摯で正統派の演技力にも舌を巻く。だが、やはりどこかスッと入ってこないところがある。抑制された演出と美しい映像だが、根本にあるのはベッタベタなロマンティシズムであり、オシャレに決めてみせても、というよりオシャレに決めているからこそちょっと鼻につく。作品では、離婚する母親のエゴに巻き込まれて深く傷つく女の子ナズナの現実がまず描かれる。ちょっとした反抗を試みるも、完膚なきまでに無力で無意味で、あっけなく、一方的にそれは終わる。そこからは主人公の男の子の(つまり岩井俊二の)妄想を描いているだけな感じがする。背反するストーリーが時間軸も無視して連続するという作りになっているが、KDMはあえて時間軸に沿って観た。そうしないと、後半のあまりのロマンティシズムの奔流に付いていけないからだ。ナズナ役の奥菜恵は、恐ろしいくらい可愛く撮られており、まさに性と自我の目覚めのクリシエ通りに行動してしまう。それは大人の男が考えるところの「男の子の妄想」の真芯を捉えている。それは性的なものを含むし、むしろ性的なものに貫かれているといって良い。その辺りが、「夏休み」「男の子」「あの頃の記憶」みたいな麗句で飾られるのは違うと思う。それにしても、デビュー作で、しかもテレビでこのクオリティの映像作品を実現してしまった岩井俊二という人の才能は過小評価してよいものではないということくらいは分かる。その他の劇場公開作品も観てみるつもり。
(2)「EUREKA」(監督:青山真治 2001日本)
(2)実は、監督自身による小説の方を先に読んでしまっていた。小説の素晴らしさに感じ入ってしまい、今回はその感動を追体験するという形での映像を鑑賞。バスジャックで理不尽な確率的な死と直面し、そして生き残ってしまったゆえに深く傷ついた3人の、癒しと再生の物語。癒しや再生というテーマは、昨今安直に使われすぎるし、まるで癒されるために傷を作りたがるような物語も数多い。しかし癒しや再生はそういうものではない。この映画では、癒される契機になる出来事や、再生のための通過儀礼的イベントも起こりはしない。3時間37分という上映時間中、「白黒なのに色彩感がある」というセピア調に似た撮影法で撮られた九州の美しい景色、長回し、アルバート・アイラーやジム・オルークの抜群な音楽などを伴って描かれるのは、「日常」を生きようとするだけの姿である。「日常」とはバスジャック事件で傷ついた3人以外の登場人物たちが生きているような状態に再び組み込まれていくということではない。例えば事件に合う前に抱えていた漠然とした不満や疑問、田舎で顕著に見られるような社会的な抑圧などといった矛盾が、事件でずれてしまった時間と心にはダイレクトに響いてしまい、またダイレクトに拒絶してしまう。社会や家族や信仰は、そういう矛盾を緩和しつつ世の中を仮初めにも動かしていくための装置なのだ。3人はそこから一旦外れてしまった人間であるがゆえに、矛盾を緩和してくれるような家族や友のつながりに感謝しつつも、そこに絶対的な価値は見出せないのである。彼らには時間が必要だったし、大人には子供のために生きることが必要だったし、子供は言葉を獲得しなければならなかったのである。癒しと再生には言葉が必要。「殺すなとは言わない。殺したければ一番大事なものを殺せ。殺しに行くかここをぐるぐる回っているか決めろ。」「生きろとは言わない。だが(自ら)死ぬな。」癒しには従来の物語の言葉よりももっと的確な言葉が必要なのである。それが出来ないものは結局癒しゴッコであり、真の癒しが必要な人間を追い詰めてしまうと思う。
(3)「ドラッグストアガール」(監督:本木克英 2004日本)
(3)田中麗奈が観たかっただけです。ハイ。というか、そのためだけに撮られた映画という側面があるという・・・。もう、ほんっとに可愛い。ミニスカが、ミニスカが、とKDMの脳内麗奈ゲージは振り切れました。EからFまで。
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