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2005/02/28

PARTY7

あ、これも借りてきてました。

本日の映像。

(1)映画「PARTY7」(監督:石井克人 2000日本)

(1)「鮫肌男と桃尻女」、本作、そして「茶の味」と観ていくと、石井克人監督の物語への欲望がなくなっていく過程が垣間見られるのかもしれない。
「鮫肌・・・」ではまだ全体の物語を構成する要素がかなり整理可能だった。本作では消えた金(これは「鮫肌」でも出てきたモチーフ)をめぐる者とそれを覗く者というふたつの要素があり、ふたつは同じホテルの一室を舞台にしている(覗き部屋は仕切られているため、一室でありながら一室ではない)という以外の接点は存在せず、互いに連関しないふたつの物語が単に「ひとつの映画」というだけで成立している。それに登場人物はすぐに本筋から脱線するうえ、人物の厚みや状況を支えているはずの過去やガジェットがすべて嘘・フェイクであることが次々と暴露されて、とにかく連続性が寸断されていく。
それでも脱線に脱線を重ねてへべれけになりつつ、最終的には金を持ってみんなで逃げよう!という方向に固まっていくのだが、実はその金もフェイクであったことがわかり、結局物語は完全に失われてしまう。それどころか「覗く者」(途中から覗きさえしなくなって、まったく別のドタバタ喜劇を演じる)を隔てる壁が破壊され、脈絡なくふたつの物語が混交されて終劇を迎える有様。しかも劇中に登場したどうでも良い「空からウンコが降ってきた」というエピソードも嘘でしたというエンディングのおまけ付き。
これはとても徹底した映画であることは、間違いない。物語を成立させない物語という意味では堅固にひとつの物語を構成してはいる。個々の物語が個々に小さなエンディングを重ねていき、家族や血縁というだけでひとつの映画にしてしまった「茶の味」とは違い、嘘とフェイクというネガティブな支点で吊り支えられた映画であった。
そういう解釈ゴッコとは別に、石井克人監督のキャラ萌え体質の映画は、結構KDMに合っている(笑)。「鮫肌・・・」~「PARTY7」~「茶の味」と、物語からキャラ萌えに特化していく過程と捉えるなんて可能性もアルカポネ。

2005/02/26

鮫肌男と桃尻女

久々にレンタルビデオ屋に立ち寄ってきましたよ、と。


本日の映像。

(1)映画「鮫肌男と桃尻女」(監督:石井克人 1998日本)

(1)この度、DVDで「茶の味」ゲッツしてきました。で、石井克人監督の他作品を観ようと思って忘れていたのを思い出して、帰りにレンタルしてきました(一気に揃えられるほど金ねぇって話で)。オシャレ映像・オシャレ音楽・オシャレファッションにオシャレカーで駆け抜ける。それぞれキャラ立ちした登場人物がユーモアに疾走し、ナウなヤングに馬鹿受けな感じ。でも脚本も俳優の演技もきちんとした技術を感じるので、「軽さ」だけで終わっているわけではない。人物の数が多くて(それゆえに)カットごとの情報量も増えているので、ついていけないと散漫な印象にもなりかねないのは確か。「面白かった」/「面白くなかった」というのは、基本的には波長が合うかどうかだろう(電波ですな~)。KDMは充分に楽しめた。
物語全体は一億円(が消えること)を中心にまわり、物語が推進する契機は「トシコ(小日向しえ)」との接触(の記憶)によって起こる。ただし、その「トシコ」とは不幸な現実からの脱出のためにヨロヨロと行動する女としてのトシコである。
登場人物は大きく2つに分けられ、さらにそれぞれ分岐する。分岐された各グループはお互いに争う。また争いは最終的に「女」に収束(=終息)していく。

(1)欲望に駆動されるグループ
①一億円が消えることで欲望を喚起される田抜(岸部一徳)率いる暴力団(国外脱出の手助けをする奴含む)
②トシコの囲い込みの欲望に駆動されるソネザキ(島田洋八)

(2)直接・間接的に「トシコ」に接触して欲望が脱臼されるグループ
①サメハダ(浅野忠信)→一億円への欲望の脱臼
②沢田(寺島進)→自分の「立場」への欲望の脱臼
③山田(我修院達也)→殺し屋稼業の代金への欲望の脱臼

双方のグループに登場人物が関連がしているので複雑になっているが基本的には(1)と(2)の相克であり、(2)は欲望を脱臼されて「愛」に目覚め、映画的に救済される。映画のクライマックスの森でのアクションシーンでは(1)のグループ内にあるはずの①と②が対立するが、それは自由のために行動する「トシコ」に、否定的に出会ってしまったソネザキが(2)へと接近してしまったために起こった相克だと解することも出来る。
サメハダは美しいヒロインの心を掴むことで映画的に救済される。沢田は危ない仕事から足を洗い、命も助かって最も素朴に救われる。サメハダを通して間接的に「トシコ」と接触した山田はバイオレンス映画のヒーローとして非業の死を遂げるという、最高の映画的救済の恩恵に与る(我修院達也演じる山田はこの映画のMVP級のキャラなので、この扱いは正しく報われているものだと思う)。(2)に接近したソネザキについては、最後の銃撃でトシコを危機から救ったという意味では映画的に救済されていると言えなくもない。
そしてなぜ欲望は脱臼されたかという答え(「トシコ」との接触)が、映画の最後で明らかになる仕掛けである。多くのキャラがぶちまけられて始まった映画が、終息に向けて収束していくという意味で、むしろ順を追って展開した結果でもある。ただ単に時間列をアベコベにしてオシャレさを演出しているわけでも、どんでん返しを演出しているわけでもない。
また、沢田を除く主要な登場人物はドタバタバイオレンスの果てにほぼ死んでしまうのだが、暴力団の姐さんとトシコは生き残り、映画は「女」へと収束する側面も持つ。つまり、聡明で美しき「女」と踊り続けて死に絶える「男」の映画でもあるわけだ。

2005/01/10

連休

三日間引き篭もってみました。けっこう、いけました!

本日の映像。

(1)映画「人狼」(監督:沖浦啓之 1999日本)

(1)原作・脚本押井守。題材は押井氏が実写映画を撮る際などによく用いていた「ケルベロス」シリーズのものである。(この映画について詳しいHPを参照)押井氏の意向よりも、監督の沖浦氏の職人気質のようなものが前面に出た作品であるし、またさあればこその押井氏の高評価にもつながっている。線が少なく、人物の陰影も薄い。際立って「アニメ的」な発想に貫かれているのだが、逆にここまで徹底すると動きや表情のディティルが最前面に出てくるので、アニメには向かないはずなのだが、この作品はそれを成功させている。いわゆるオタクアニメを見慣れている人にとってはおそらく違和感を感じずにはいられない画面だと思われるが、登場人物の存在感はそれらよりもクローズアップされており、エロティックな空気感すら漂う。物語部分も充分なクオリティ。取っ掛かりは押井ワールドって感じで、馴染みのない人にはちょっとキツイかもしれないが、主軸である男女の物語はかなり一般向けになっていると思う(脚本は沖浦氏がかなり修正したらしい)。時代背景、男女の物語(あるいはそれが象徴するもの)、銃器のディティル、映像の良さ。あらゆる角度からの鑑賞に耐え、またそのどれもが疎かになっていない素晴らしい作品。

2004/11/08

週末の映像

レッズ戦で疲れた心身を癒すため、土曜の夜から日曜にかけてはDVD(ドゥ・ビデオ・ドゥ)を観てました。


(1)「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」(監督:岩井俊二 1996?日本)

(1)テレビドラマか何かだったらしい本作。正直、岩井俊二は好きになれないのではないか、と観もせずに漠然と思っていたKDM。最初から「映画」として撮ったものを観れば感触も変わるかもしれないという留保はあるものの、やはり不安は的中。センスは良いとは思うし、奥菜恵、山崎裕太はじめ(当時まだまだ子供と言って良い年齢)キャストの真摯で正統派の演技力にも舌を巻く。だが、やはりどこかスッと入ってこないところがある。抑制された演出と美しい映像だが、根本にあるのはベッタベタなロマンティシズムであり、オシャレに決めてみせても、というよりオシャレに決めているからこそちょっと鼻につく。作品では、離婚する母親のエゴに巻き込まれて深く傷つく女の子ナズナの現実がまず描かれる。ちょっとした反抗を試みるも、完膚なきまでに無力で無意味で、あっけなく、一方的にそれは終わる。そこからは主人公の男の子の(つまり岩井俊二の)妄想を描いているだけな感じがする。背反するストーリーが時間軸も無視して連続するという作りになっているが、KDMはあえて時間軸に沿って観た。そうしないと、後半のあまりのロマンティシズムの奔流に付いていけないからだ。ナズナ役の奥菜恵は、恐ろしいくらい可愛く撮られており、まさに性と自我の目覚めのクリシエ通りに行動してしまう。それは大人の男が考えるところの「男の子の妄想」の真芯を捉えている。それは性的なものを含むし、むしろ性的なものに貫かれているといって良い。その辺りが、「夏休み」「男の子」「あの頃の記憶」みたいな麗句で飾られるのは違うと思う。それにしても、デビュー作で、しかもテレビでこのクオリティの映像作品を実現してしまった岩井俊二という人の才能は過小評価してよいものではないということくらいは分かる。その他の劇場公開作品も観てみるつもり。

(2)「EUREKA」(監督:青山真治 2001日本)

(2)実は、監督自身による小説の方を先に読んでしまっていた。小説の素晴らしさに感じ入ってしまい、今回はその感動を追体験するという形での映像を鑑賞。バスジャックで理不尽な確率的な死と直面し、そして生き残ってしまったゆえに深く傷ついた3人の、癒しと再生の物語。癒しや再生というテーマは、昨今安直に使われすぎるし、まるで癒されるために傷を作りたがるような物語も数多い。しかし癒しや再生はそういうものではない。この映画では、癒される契機になる出来事や、再生のための通過儀礼的イベントも起こりはしない。3時間37分という上映時間中、「白黒なのに色彩感がある」というセピア調に似た撮影法で撮られた九州の美しい景色、長回し、アルバート・アイラーやジム・オルークの抜群な音楽などを伴って描かれるのは、「日常」を生きようとするだけの姿である。「日常」とはバスジャック事件で傷ついた3人以外の登場人物たちが生きているような状態に再び組み込まれていくということではない。例えば事件に合う前に抱えていた漠然とした不満や疑問、田舎で顕著に見られるような社会的な抑圧などといった矛盾が、事件でずれてしまった時間と心にはダイレクトに響いてしまい、またダイレクトに拒絶してしまう。社会や家族や信仰は、そういう矛盾を緩和しつつ世の中を仮初めにも動かしていくための装置なのだ。3人はそこから一旦外れてしまった人間であるがゆえに、矛盾を緩和してくれるような家族や友のつながりに感謝しつつも、そこに絶対的な価値は見出せないのである。彼らには時間が必要だったし、大人には子供のために生きることが必要だったし、子供は言葉を獲得しなければならなかったのである。癒しと再生には言葉が必要。「殺すなとは言わない。殺したければ一番大事なものを殺せ。殺しに行くかここをぐるぐる回っているか決めろ。」「生きろとは言わない。だが(自ら)死ぬな。」癒しには従来の物語の言葉よりももっと的確な言葉が必要なのである。それが出来ないものは結局癒しゴッコであり、真の癒しが必要な人間を追い詰めてしまうと思う。


(3)「ドラッグストアガール」(監督:本木克英 2004日本)

(3)田中麗奈が観たかっただけです。ハイ。というか、そのためだけに撮られた映画という側面があるという・・・。もう、ほんっとに可愛い。ミニスカが、ミニスカが、とKDMの脳内麗奈ゲージは振り切れました。EからFまで。

2004/10/11

すべて母音のみのファーストネーム

AOI。

本日の映像。

(1)「害虫」(監督:塩田明彦 2002日本)

(1)ほとんど宮崎あおいのプロモーションヴィデオか、というくらい彼女(中1の主人公役)の魅力が前面に出ている。恐ろしく徹底した女優さんで、本当に素晴らしい。映画自体はとてもよく出来たもので、安易さのないところに好感が持てた。従来の意味での物語(劇中では夏子がそれを体現している)がなんの力も持たないことを我々は知っている。火炎瓶のシーンはそれを端的に表している。だからといってそれに代わる何者をも見出しえないことも。主人公は反抗の果てに結局恐怖のあまり逃亡するしかなかった。それは逆に従来の物語から敗北してしまうこととも通じる。真に従来の物語に勝つには沈黙でも暴力でもなく「新しい言葉」を見つけなければならなかったのだ。それが出来ない(あるいはさせない)現在だからこそ、このような無言の多い映画になるのだろう。敗北後の主人公は無残な大人になってしまう。「17歳?」と聞かれた主人公がやや驚きながらも、現実をフィックスしていく過程がとても悲しい。最後に先生(彼は大人でありつつ大人から脱落している)とすれ違ってしまうのは、監督及び脚本家の現状認識の誠実さが生んだ結末だろう。彼らは正しい。ファンタジーでも撮ろうとするのでもなければ、このようになる以外ないだろう。そういう映画に快いものなどないのも当然だが、本当に危うくて、いつカタストロフが訪れるのかと動悸が止まらなかった。危うさは演出や小道具のそこかしこに偏在するが、最大の危うさは宮崎あおい演じる主人公の性別と年齢であろうと思う。「力」の制御が不完全で、セックスでは女性としてすでに商品価値があり、精神のバランスを崩した母親に転位して一緒に崩壊してしまうほどの子供でもないが、完全に自立できるほどの大人でもない。下手なホラー映画よりもスリリングだと思った。(ホラー映画は観ないけど・・・)

2004/10/10

振回し少女達

タイフーン直撃の中、人気の少ない週末の新宿を駆け抜けて行って参りました映画館。

本日の映像。

(1)「スウィング・ガールズ」(監督:矢口史靖 2004年日本)

(1)長所も短所も、「ウォーターボーイズ」(めんどいので以下ウボw)のほぼ完全なる反復だった。それ故に観た時の不満もまたKDMの中で反復されてしまったわけで。というより、この映画は物語や映像以外の情報を要求し過ぎる。熱心な宣伝効果もあり、劇中のチャーミングな女の子・男の子が長く地道な特訓を経て、実際に演奏をこなしているということを我々は既に知っている。また知っていなければ、音楽を通して何かを達成するカタルシスを味わうことができないだろう。なんといっても音楽の訓練についての描写が杜撰すぎる(これはウボもまったく同じ)。今回はウボを事前に予習していたのでその辺は既に覚悟が出来ていた。「やっぱりね」という確認。ウボとの違いといえば、主人公が女の子であること。もうね、ほんと、可愛かった。特にトロンボーンの眼鏡っ子萌え(本仮谷ユイカ)。あと何気にピアノ弾いてた男の子(平岡祐太)がすっげー良かった。主人公(上野樹里)のキャラもウボんときより立ってたし。あとはウボのときはアノニマスだったロケーションが、今回は「山形」と特定されていること。山形人のKDMが言うのもなんですが、よくもまあこんな地味なとこを選びやがったもんだぜ。ほんとありがとう(笑)。方言もよく訓練されていた。んで、おお!完璧な方言をしゃべる人がいる!と思ってよく見たら渡辺えり子さんだった罠。笑いに関しては相変わらず良かったけど、楽器を粗末に扱う場面は生理的に駄目だった。

2004/09/26

明日へ向けて

明日は駒場劇場!アド街が浦和だったこともありテンション上がるわ~。

今日はDVD観て英気を養う一日。

本日の映像。

(1)「pierce ピアス LOVE&HATE」(監督:安藤尋 1996日本)

(1)「凡庸」な映画。「凡庸」というのは、課題・テーマを設定する映画ではないということ。解決を約束された課題・テーマを設定することはこの映画にきっとふさわしくない。そういえば、安藤監督の「blue」もそういう感触はあったかもしれない。わかりあうこともないし、救いもない。映画的解決のシンボルとしてセックス(一緒に戦った男女がクライマックス前に一発やってしまうハリウッド映画などのアレ)があるとすれば、この映画ではエロティックな描写や仕掛けの数々にも関わらず、絶対に交わることがない。交わる空気がほんの少しでも漂った瞬間にこの映画では人が死ぬ。そこは徹底されている。そしてそのコミュニケーションの断絶を図らずも効果的に描いているように感じさせる装置の一つが電話である。携帯電話の普及がいまほど進んでいない時代であることもあるのだが、この映画では電話に向かって話すシーンが多いのに会話しているシーンがほとんどない。唯一あった会話から派生するフリーライターと主人公の女の交流も、徹底的な断絶を演出する筋にしかならない。断絶を生きる女と、その断絶した女を絶対化して生きる男の心中での終幕まで、監督と脚本のテンションが切れることがない。「blue」を観たときに感じた、安藤監督の素晴らしい胆力は、デビュー作の頃から発揮されていたのだな、と。なお、襖を蹴り倒して転げ出てくるダンボール女の映像は、おそらくこの映画唯一にして最大のユーモアだと思う。もともとこのキャラのみ、この映画では異質で滑稽な存在でもあったわけだが。


(2)「ホテル・ハイビスカス」(監督:中江裕司 2002日本)

(2)登川誠仁、照屋政雄などの沖縄音楽界の重鎮の魅力がもう、たまりません!!!さて、日本で唯一、御伽噺を可能とする単語「沖縄」。KDMなぞは沖縄に行ったこともないし東北人だしで、正直言って沖縄の空気感、現実、アメリカなどなど、さっぱりわからない。わからないからこそ、憧れる。また、もともと京都生まれだという中江監督の作り方もそういう憧れを増幅させる。とにかく奇を衒わぬストレートな脚本を楽しく明るく映画にしただけでここまでの名品に仕上がるというのは沖縄マジックというほかない。たとえばこれとほぼ同じ脚本でKDMの郷里山形で映画を作ったらクソみたいな映画になっただろう。沖縄における色彩感覚とアメリカというキーワードは単純で日常的な言葉の束に化学反応を起こさせてしまう。「愛は必ず伝わる」「石を投げるな戦争になる」などという、東京で聞いたら馬鹿馬鹿しくて反吐が出そうになるセリフについ涙ぐんでしまうような力を持たせてしまうその力には、正直ずっりーなーとさえ感じてしまうのである。それだけ圧倒的に魅力的だということなんだが・・・。ただ強調しておくべきことは、中江監督はこの楽しい映画を作るのにかなり職人的に臨んだであろうこと。メーキングのインタヴューを観てもそうだし、主役の蔵下穂波(最高)以下、登場するキャストの演技を観てもかなり計算され、良い意味で作りこまれた丁寧さを感じる。沖縄の魅力に寄りかかるだけの無策な映画とは一線を隔している。

2004/09/13

休日は引き篭れ・エピローグ

昨日の本日の映像。

(1)「昭和歌謡大全集」(監督:篠原哲雄 2003年日本)

(1)村上龍作品の映画化というのは、こういう手法が一番しっくりくる。脚本を丁寧に作成し、その場その場で必要に応じて過不足ない要素を画面や演出に投入し、オーソドックスに仕上げることを基本線に映画を構築する。実際、村上龍自身が監督をした映画がそういうところがあると思うんだが、暴力も音楽もセックスも「ドラマ」を省き、坦々と日常のように描くべき。そうしてリアルに徹することでリアリティをある時点から転倒させることができる。内容は、変化した時代と齟齬をきたす日本的システムが生んだふたつの勢力、「ガキ」と「おばさん」を真正面からぶつけて、実際殺し合いをさせてしまうという村上龍らしいモチーフ。実際、観客は基本的にはどちらにも強烈な不快感を覚える(まあ、人それぞれだろうけど)。この監督さんの力量は本当に非凡なものがある。「はつ恋」も良かったし。ほかの作品も観てみよう・・・。

2004/09/12

休みは引き篭れ2

レッズは1-4で大分に勝利!よしよし、よーし!ガンバとハマが取りこぼすこともあるだろう。俺たちは勝ち続けるだけさ~。(でも、ホッ)。

本日の映像。

(1)「地獄甲子園」(監督:山口雄大 2002年日本)

(1)馬鹿な馬鹿映画。KDMにとっては、一度は観ておきたい。二度はいいや、という映画。KDMは真面目に馬鹿な映画は好きだが、正直これは馬鹿な馬鹿映画。木目細やかな馬鹿、緻密な馬鹿が好きなんで、地獄甲子園とは相容れないw。むろん、作っている連中はそれを目指していることが潔いのでむしろ快いくらいだが。

(2)「金髪の草原」(監督:犬童一心 2000年日本)

(2)神奈川テレビでやってた。伊勢谷祐介、池脇千鶴が素晴らしい演技をみせる(正直言うと池脇さんの演技には完全にマンセー出来るわけではないのだけれど)。いやー、でも、これ良いわ~。痴呆の老人のもとへホームヘルパーとしてやってくる池脇演じる主人公は、徐々に不幸になっていく現実に押しつぶされそうになっている。また隣家の女の子は大人の都合で歪んでいく現実に耐えながら、老人(伊勢谷)を激しく罵倒したりすることで自分の心のバランスを守っている。物語では、80歳の老人が、痴呆のために自分を20歳と思い込み、また記憶もその当時のものに完全に戻ってしまっている。(画面上では伊勢谷の姿である)彼は記憶と現実との齟齬を、「夢」として認識することで受け入れていく。彼にとっての「夢」の世界に触れていくことで、主人公と女の子は、(忌むべき)現実と夢との境界を侵犯していくようになる。一貫して伊勢谷の姿である老人を見続ける観客もまた然り。しかし老人にとっての現実はあくまでも「夢から覚めたときにいる20歳の自分」であったのだが、一枚のメモにより「80歳の痴呆老人」という別の現実の可能性に気付いてしまう。メモは「本当の現実」を知らせるものではない。むしろ「現実」を破綻させてしまう異物でさえあった。彼にとっての現実はどれなのか、彼自身には決定出来ないし、一体どの現実あるいは夢が幸福なのかも分からない。そして、彼は彼の夢の証明のために金髪の草原へとジャンプする。女の子が呟いた「跳べ」というセリフは、現実から逃れたい彼女の悲痛な叫びに聴こえた。結局、この映画では誰も救われたりしないのだが、それぞれに残されたそれぞれの現実を坦々と生きはじめる登場人物たちは老人の一瞬の夢から、何かしらの異物を受け取って、日常へと戻っていくのである。

休みは引き篭れ1

お金がないときゃレンタルビデオに貯まったCDを抱えて引き篭もるに限る!というわけで、映像作品を観た際の備忘録代わりのコーナーを追加。


本日の映像。

(1)「ウォーターボーイズ」(監督:矢口史靖 2001年日本)

(1)「スウィングガールズ」のロケーションが山形ということで、贔屓目ばり堅で見に行くつもりなわけですが、金がないのでまずは矢口監督のヒット作をレンタルで鑑賞。正直、微妙作品。クライマックスのシンクロパフォーマンスは確かに熱いものの、そこまでのプロセスの描き方が甘すぎ。むしろメイキングの合宿風景の方がよっぽど面白い。音楽でもスポーツでも、ファンは最終的な結果やパフォーマンスに畳み込まれている訓練のプロセスの跡を透かし見ている。才能や個性はその前提の中でしか論じることが出来ない。コメディだから良いではないか、という声もあるかもしれないが、コメディだからこそその辺りの原則を無視してはいけないと思う。「所詮コメディ」と言われてしまうのはかえって屈辱だと思うわけで・・・。モチベーションが曖昧なままで流されていく、というシチュエーションは実は結構好きなので(青春なんてそんなもんさw)、その点は問題なかったんですが、やはり最後のパフォーマンスに感情移入できるほどの内容を畳み込むことが出来なかった点は物語の不徹底だと思った。せめて、竹中直人には基礎的なコーチング能力があった的な設定くらいは欲しかった。平山綾のとび蹴り、燃えるアフロのスローモーなどは最高だったんだが・・・。一応、「スウィングガールズ」は行くし、「ひみつの花園」なんかも観てみたいが、これはちょっとがっかり。

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