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2011/09/19

【読んだどー】宮崎学『近代ヤクザ肯定論 山口組の90年』

宮崎学/著
『近代ヤクザ肯定論 山口組の90年』
(筑摩書房・ちくま文庫)


まずは基本的な認識をまとめておきます。

・暴力装置とは実効戦力を権力や統治の基盤とすること
・暴力装置が支える基本的な構造は「平時においてはみかじめ料を支払う。非常時においては共同体のために死んでもらう」というもの
・具体的な暴力装置は、近代国家の軍隊や警察、地域共同体や職能集団に依拠していた近代ヤクザなど
・近代化され且つ資本主義のように経済活動が広範な階層で活発に行われる国家では、暴力装置は独占的に集約される
・暴力装置の寡占化から国家による独占という流れは、資本主義によって要請され、国家によって推進される
(個々人がある程度豊かになると暴力行為はそれ自体忌避される上、暴力の偏在が解消されて市民は日常的な暴力に備えるコストを無視出来るようになるというメリットがある。一方、警察や軍隊などが市民に対してその実力を行使した場合、市民にはなす術がない。故に如何にコントロールするかが重要課題となる。その意味で「暴力装置」という言葉は一見過激だが、その矛先が自分たちに向いたときのことを考えれば、妥当な過激さともいえよう)

以上、前提確認。

近代ヤクザ肯定論は、国家によって独占された暴力装置へのリスクヘッジ、セーフティネットとして描き出されます。

曰く「警察権力によるヤクザ弾圧は彼らの共同体からの乖離と犯罪組織化・マフィア化を推進しただけで、結果的に社会不安を増しているではないか」

曰く「我々は、近代ヤクザがかつて担っていたところの、下層労働者やドロップアウトした人々の受け皿の機能を失ってしまった…」

曰く「法的・構造的・質的・量的に警察や自衛隊や官僚組織がフォローしきれない、しかし個々人では対応に困るような事態が起こった場合に、暴力装置が独占された状態では打つ手がない」

etc..

例えば3.11の東日本大震災のような非常事態を考えるに、ライフラインが完全破壊された地域での救助活動は、衣食住を自前で準備して展開できる軍隊的な組織に任せるのが一番でしょう。

他方、避難民の秩序維持や相互扶助は、その土地・地方の地域共同体に根差したかつての近代ヤクザ組織があったなら、彼らが行うのが一番効率的で即効的だったはずです。マイクロコミュニティの構成員が持つソーシャル・キャピタル、社会関係資本の統括と再分配を担うのが近代ヤクザだからです。外部からの物的・人的救援流入と、受け入れとのマッチングは一層効率的に実施出来たと考えられます。

そもそも行政・官僚機構が大規模災害のような非常事態に弱いのは全世界共通です。国家による大規模な復興計画と予算が成立するまでに時間が掛かるのは当然だし、個々の状況によって必要な扶助の形も千差万別な中、官僚的でパターナリスティクな対応で即効性があると思う方がおかしいのです。

(と、これは続けて読んでいる『思想地図βvol.2』津田大介さんのルポとの共振)

ヤクザによる暴力装置型の秩序維持は常に、法や権利・義務関係といった形式知の隙間を埋める(形式知で割り切れない剰余を個別に回収する)形で成立してきたという、本書を貫く歴史観はこうした肯定的な視点から導かれたものといえるでしょう。終章の超近代ヤクザ構想のデッサンについても、ゼロ年代以降顕在化した新たな格差に対して、アウトロー集団復権の可能性を示唆するものでした。

実際、各種規制を強化している割に経済政策に失敗して自殺者を大量生産している日本の現状があるのですから、納得のいく話です。

(脱線。本書の記述中、格差社会に対応する方法論としては、むしろ在日コリアンの生き様から学ぶ点を多く感じました。部落差別にとっての同和政策などがないまま、自助努力でパチンコ業界などの隆盛を見た彼らの歴史。そこに行政が機能不全を起こす状況下の共同体による生存戦略の範となるのではないか、と。巷間言われる「次に興隆するのは、世界の変化に先行して適応していた者たちである」というテーゼに照らしてみれば、差別と格差、行政からの切捨てに適応してきた在日コリアンが、次世代の星なのかもしれません。今後はこちらについても深く学んでみたいものです。)


近代ヤクザ肯定論は、セーフティネットという表現からしても伺えるように、形式知(国家権力や官僚組織、法制度など)の否定ではありません。近代ヤクザとは、マジョリティな形式知から零れ落ちた諸々を引き受けて補完するもので、それ自身がマイノリティを基盤とした形式知的な権力を構成します。

つまり近代ヤクザ肯定論は「大きい暴力装置を補完するため、複数の小さい暴力装置を持つべし」という風に読み替えることが出来ると考えます。これは、保守の基本的な視座でもあるでしょう。

そこで引っ掛かるのが、維持コストです。

暴力装置は平時にあってもみかじめ料を支払い続ける、つまり「遊兵を常備する」という高コスト構造といえます。自衛隊や警察も、国民から強制的に徴収される税金で有事に備えているわけですから、ヤクザのみかじめ料と根本は変わりません。

現状更に核武装や徴兵制の実施を主張する向きには「その金どっから持ってくんだよ」と問わねばなりません。平時においては両者とも生産に寄与せず、消費するだけです。社会福祉充実に「財源はどうする」と突きつけられるのと同様、否、それ以上に、高コストな仕組みについて財源を問わぬなどというのは通りますまい。精神論で徴兵制を語っても仕方がないのです。

財源問題は一旦置くとしても、暴力装置はコストの正当性を主張するために危機の到来を要請します。到来しなければその危険性を自ら喧伝せねばなりません。

「あ~危ない危ない!親分さん/軍人さん/おまわりさんが居てよかったなぁ」と実感できる非常事態(の演出)がそこそこないと、コストを正当化できません。みかじめ料を払うことが結果的に合理的であると、人々に共有される必要があります。

前提でも述べましたが、暴力装置の数を減らす方向にシフトしたのは、そうした高コスト構造が端的に無駄になってきたから、という見方が出来ると考えます。そのような無駄なんざ国家と官僚組織だけで十分さ、と。

思うに、重要なのは無駄を省いたという合理性より、無駄を省けるようになった技術論ではないかと考えます。本書の物語を「単一システムが処理できる情報量の増大」という技術論的な物語として読み直す余地があるのではないでしょうか。

「暴力装置が発動するのは、個々の社会システムの射程を越える事態が起きたときである」また「その射程は技術力に比例する」と大雑把に捉えてみます。

かつて社会が暴力装置を複数持っていたのは、技術的な制約ゆえに、社会システム個々の射程が短かったからに過ぎないとしたら。国家による暴力装置独占(あるいは押し付け)が不完全なりとて「昔不可能、今可能」であるのは、社会を支える諸システムの射程が技術革新によって伸びたからなのだとしたら。更に、射程の伸びたシステム同士がネットワーク化されることで、暴力装置の発動をなぁなぁと回避しつづけることが「技術的に」可能になったのだとたら。

利害関係が複雑に絡み合うシステムと、極端な貧困(例えば敗戦直後の日本のような)が解消された近代社会。そこは抗争によって起きる損失を、抗争によって得られる利益でペイ出来なくなった社会です。そんな社会においては、暴力装置を養っておくよりも、ネットワークを維持しつつ生成流転を繰り返しておく方がよい、と判断されるのも無理からぬことと思われます。

この読み方を極端に進めて(=現実的な諸問題は一旦カッコに入れて)、暴力装置型の組織から暴力を思い切って差し引いちゃう思考実験はどうでしょう。

例えば自衛隊は鉄砲だの戦車だのといった無駄なコストを省き、災害救助専門集団として再編すればよいでしょう。とりわけ日本は自然災害の頻発地帯である以上、その組織を維持し続けることは十分に合意が取れると思われます。


本書を別の物語として読み直すのは、現実的に思考実験の域を出ないことは理解していますが、近代ヤクザ肯定論と技術論を掛け合わせたような社会を、自分は志向しています。本書の後に読みはじめた『思想地図βvol.2』でも模索されている方向性だとも感じています。

最後に。

近代ヤクザ(複数の暴力装置)肯定論として読もうと、技術論として読もうと、形式知によって割り切れない剰余を回収する構造を如何にして確保するか、という問題自体が解決するわけではありません。その視点で言えば両者は、剰余への対応が保守的か革新的かという「色合い」の差でしかないでしょう。

そこで考えてしまうのは、剰余を「最終的に」回収する装置の欲望です。

天皇中心主義というのは、その欲望に応えるものだと理解しています。複数の暴力装置の、更にその隙間を埋める羊水のように剰余を回収するイメージ。…実際、共感の度合いが低いので想像でしかないのですが、天皇中心主義はイメージ的に過ぎ、現実的な剰余が回収できるわけでもないように思えます。
(失敗したら殺される、という金枝篇的な王(by小飼弾氏の要約)であれば話は別ですが…)

自分は形式知の剰余を最終的に回収する必要はなく、白痴的な形式知(=技術)を以って大雑把に回収できておれば良い、との考え方でおります。

で、白痴的な形式知としては、例えば攻殻機動隊S.A.C.のクゼの資金獲得法+ベーシックインカムというのはどうでしょう。

「すべての決済システムに、税額計算ロジックで切り捨てられる端数(一律切り上げるのでなければ、四捨五入でも端数切捨てでもゴミは必ず出ているわけで…)を特定口座に集めるロジックを組み込み、それをBIとして個人数で頭割りにして頭数で割ってばらまく」

金額の試算はしてないので、ばらまく金額を出してみたら無意味な数字になってしまうかもしれませんが…。

とまれ。運用・再分配に優秀な官僚が必要なわけでもないし、誰かが負担している感覚があるわけでもない。白痴的な技術に支えられた世界…。

試算のある例では、小飼弾氏のBIの財源「相続税100%」案などもあるわけですが、いずれにせよ「生きてるだけで丸儲け」を実現する形式知に支えられた世界を是としたいのです。

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