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July 10, 2009

【妄想するべ】深夜のアニメから(←世界の車窓から風にしようとして失敗した体で)

「けいおん!」の後番組で「大正野球娘」というのがはじまってます。

大正ロマン風味をデザインに取りこむことはオタク業界では結構ポピュラーですが、実際に大正時代を舞台にした、しかも萌えアニメというと寡聞にして知りません。

もしかしたら物凄い時代考証で作られてたりしたらどうしようかと思い(なぜ)、第1話見てみました。

まー、時代考証とかどの程度されてるのか正直分かりませんでしたが、冒頭で歌われたのがこの「東京節」。

http://www.youtube.com/watch?v=jTHA_bxaxPA

第1話で時代背景説明をこの挿入歌と年表で済ましてしまうってのは、確かにてっとり早い(笑)。

あとは書き割りと小道具に拘るくらいで、普通に萌え萌えいってりゃいっか的な。


さて、その「東京節」なんですが、

http://bonywalk.com/mt/2007/08/post_111.html

で歌詞を見てみたところ、劇中で使われたのは名所を紹介した前半部分だけ(一部放送禁止用語を書き換えてある)。

後半はWWⅠによる好景気を背景に急速な近代化を成し遂げた大正時代の、貧富の差が拡大した都市部の生活、また都市部と農村との格差を風刺したどぎつい内容でした。すげーな、これ。

幕末から明治維新期って、既にかなりファンタジー感あるんですけど、大正時代って現代に直接ずっぷし繋がってる感じがして興味深いです。

軍人が幅を利かせたWWⅡ前後が歪んでいて、且つ敗戦という断絶があるので感覚的には曖昧になってしまっていますが、実際は現代まで続く都市の姿を準備したのは大正時代だった、と。

大正研究の本とか読んでみようかな~(そのうちナ・・・)。

June 07, 2009

【CD聴くべ】ブルックナー交響曲第5番(YSO LIVE)

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ブルックナー:交響曲第5番変ロ長調(原典版)
 山形交響楽団
 飯森範親(指揮)

 録音時期:2009年1月20-21日
 録音場所:山形テルサ
 録音方式:DSDレコーディング(セッション)

 SACD Hybrid
 2ch HQ (CD STEREO/ SACD STEREO)

ブルックナー祭(ブさい)第三夜。

飯森親範指揮山形交響楽団によるYSO LIVEシリーズ。今回はブルックナー交響曲第5番。

ちなみにすべてセッション録音です。レコ芸の記述に間違いがありましたが、YSO LIVEつってセッション録音が出てくりゃ、そりゃまー誤解しちゃうよな。

ライヴ収録した音に問題があって、リカバリ用録音の予備日で全部録り直したのかな??


てか、そういうこと出来んなら毎回そうして欲しい(笑)。ライヴで揉んだ演奏曲目を、熱いうちにセッション録音する、という流れが記録的にもベストだと思うべなー。


演奏は、大編成音響で聴くブル5の、あの壁のような音圧がまったくなく、期待値をそこに設定すると全然違う曲に聴こえちゃうくらいに異質。

通常編成の演奏に比べてダイナミックレンジが狭く、メリハリはあまりない。ピッチの合い具合が半端ねー!という類のオケでもないし、全編にわたり透明感よりも素朴な滋味みたいな聴後感でした。60年代古楽器導入前ハイドン風ってゆうか?(^^;)

演奏会の惹句は「樹氷に響く天空のコラール」だったそうですが、その語感のキンとクールで透徹して広々とした空間性のイメージよりも、さくらんぼ採ったり蕎麦をすすったり温泉入って和みながら、ズーズー弁の中で日々がんばってる感じの方が合ってる気がします(どんなイメージだよ)。

地味な演奏であることは間違いないのですが、テンパってるとこも含め弦も木管もよく聴こえて、アバドやスクロヴァチェフスキーが何故か強調したコーダのピッコロだかフルートだかもうっすら聴こえてくるほど(ヘッドフォンならね。かすかにね)。

金管含め突出した個に全体が引きずられることなく、抑制と集中が効いていて聴きづらさもさほどなく、山響サポーターとしては満足気。モンテディオのサッカーかよって。

それにつけても、小編成オケでのブルックナーは良いな~。ライナーノーツでは6番以前の曲を継続して取り上げたいと飯森さんは仰っているらしいです。7番以降も、管にトラ呼ぶレベルで実現出来たりしないもんかな・・・(さすがに難しいか)。

YSO LIVEも第4段。なかなか順調なペースと言えるかも。こうなると客演指揮者の阪哲朗氏や指揮回数の多い工藤俊幸氏などの録音もぜひ実現してほしいところです。

【CD聴くべ】ブルックナー交響曲第9番(P・ヤルヴィ盤)

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ブルックナー:
交響曲第9番ニ短調
(B=G.コールス校訂ブルックナー協会版クリティカル・エディション[2000年])
 フランクフルト放送交響楽団
 パーヴォ・ヤルヴィ(指揮)
録音:2008年2月27日~29日アルテオーパー、フランクフルト(ライヴ)
 ハイブリッドSACD
 CD 2.0ch./ SACD 2.0ch./ SACD 5.1ch.

ブルックナー祭(ブさい)第二夜。

パーヴォのブルックナーチクルス第2段。

前作の7番よりもパーヴォ・ヤルヴィの音楽作りに合っているように思えます。なんかノってきた感じするな~。
(単にKDMのブル7への共感が薄いだけ、ともいえるかもしれませんけどね。HAHA!)

フランクフルト放送響(hr響)は基本的にうまいのにどこか甘さも見えてしまうオケで、それが長所にも欠点にも聴こえる気がします。まー、具体的にどこというよりは印象論なんですけどね。

そのある種ルーズさが7番ではライヴ録音の瑕疵として、9番では厳しい曲相とあっているのかライヴの迫力や勢いとして、KDMには聴こえてきました。

ゆっくり目のテンポで描く両端楽章なんか結構チャレンジしてる演奏になっていて管楽器が時折ズバーッとバランスを突き破って轟く。

そしてスケルツォは楽器ごとに微妙に表情の濃淡を使い分け、さらにはソロを浮き立たせ、複層的・重層的なリズムを作ったエイキサイティングな内容。これぞパーヴォ節って感じ。

hr響のぞわぞわした音色含め、ちょっとマーラーに接近しているような・・・。

とはいえやはり、今回は同時期に出たケント・ナガノのロマンティック録音のバイエルン国立管弦楽団が素晴らし過ぎたこともあって、ほんのちょっとだけ魅力に陰りを感じてしまったのも事実。hr響は演奏者個々レベルのちょっとした細部の詰めに、甘さを感じてしまいます。

録音の面でもナガノ盤より落ちる気がします。ちょっちかさついてる感じ。

パーヴォファンとしては十分満足なレベルではあり、一般的に言って普通に巧い演奏なんで、あえて比較すればって話なんですが・・・。


パーヴォはシンシナティ交響楽団、エストニア国立管弦楽団、フランクフルト放送交響楽団などで録音活動を行っていますが、そろそろ、もう半歩だけ基礎力が高いオケとの録音も望みたくなってきました(ドイツ・カンマーフィルだけはやや異質かな)。

パリ管のポストは決定しているものの、どうなるか。。。最近のパリ管って録音もライヴも聴いたことないからな~。

June 06, 2009

【CD聴くべ】ブルックナー交響曲第4番(ナガノ盤)

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ブルックナー:交響曲第4番変ホ長調『ロマンティック』(1874年第1稿)
 バイエルン国立歌劇場管弦楽団(国立管弦楽団)
 ケント・ナガノ(指揮)

 録音:2007年9月、ミュンヘン
 DSDマスタリング
 SACD Hybrid
 SACD Multi 5.0ch/ SACD Stereo / CD Audio Stereo

ブルックナー祭(ブさい)第一夜。

ケント・ナガノのロマンティック初稿版。各所で絶賛されてますが、これはほんとに超名演。

ベルリン・ドイツ響との3番6番も良かったですが、今回の4番は実にあっさりと既録音以上の出来映え。こうなると初稿じゃない版も聴いてみたくなります。


なんてったってバイエルン国立管弦楽団が最高!びっくりしました。アンサンブル精度といい響きの透明感といい、抜群に素晴らしいです。

このベースがあればこそ「ロマンティク」初稿版という微妙な曲でも問題なく聴き通せて且つ感動まで持って行けたんだと思いますな。音楽においてどれだけ基礎が大事かって改めて思い知らされた感是あり。

初稿版は最終稿と比べると響きも薄くて、個々の演奏者同士の絡み合いや受け渡しが多い印象ですが、ほぼ完璧な演奏じゃないでしょうか、これ。惚れ惚れしちゃいます。

ここ最近CDでブルックナーを聴く機会が多かったんですが、バイエルン国立管弦楽団の音の印象が強すぎて、正直ほかが霞んでしまいました。

ナガノについていえば、ブルックナー演奏に関して故ギュンター・ヴァントの教えを請うたらしいですが、条件の整ったセッションということもあってか、師の北ドイツ放送oライヴなんかより100倍良い音(当人想像比)で鳴ってます。

このツィクルスがこのクオリティで継続されるたらすっげーことになりますねこりゃ。


ナガノはド派手な芸風でないので熱狂的フォロワー群をあまり見掛けませんが、ブラームス第4の録音とか、今回のロマンティックとか、たまに凄まじい名演を繰り出してくるから目が離せません。

今度はモントリオール響とのマーラー「大地の歌」の発売が控えているみたいです。楽しみ。
(そういやマーラー第8交響曲の録音持ってなかった・・。高かったし。そのうちほしいな。)

【読んだどー】ヴェルヌ「十五少年漂流記」

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ジュール・ヴェルヌ/著 横塚光雄/訳「十五少年漂流記改訂新版」(集英社文庫)

http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000032232949&Action_id=121&Sza_id=HH

地底旅行に引き続き十五少年漂流記を読んでみた。たしか中学校のころに一度読んだような・・・。記憶があいまい。

港湾都市生まれヴェルヌの国際感覚や黒人少年水夫への当時としてはおそらく最大限に公平な視線と限界、本の虫だったという博覧強記ぶりが与えるリアリティ(かなり変な知識も多いけど)等等、いま読んだからこそ見えてくる点も多い。

そして少年とはいえさすが欧米人キャラ(詳しくは英米仏の少年+黒人水夫)、結構エグイこともやる。

鳥とか獣バンバン撃つし、アザラシ捕まえて切り刻んだうえ煮詰めて脂とったりもする。正当防衛とはいえ最後は殺人もやってるし。

日本人目線だと、島に着いたなら魚を食えばよいではないかえ、とアントワネット節を効かせたくなるところ。

悪人とはいえど同じ漂流者同士力を合わせて脱出だぜ!というプロセスを経て悪人も改心みたいな話になりそうな気がする。
(や、いまのままでも普通にあるんだけど。)


あとがきにもあるように、漂流記という名の冒険譚、というよりは漂着後の記録であり、秩序を構築する物語でありますな。小さな社会のお話というか。

こりゃ漂着繋がりで「蝿の王」も読んでみたくなってきました。でもエンタメとしては読めないな。後味が良いってのはエンタメの基本だし。


それから、今回はじめて知ったのは、原題が「二年間の休暇(ヴァカンス)」だということ。超つまんなそう(笑)

十五少年漂流記って名前を考えた児童書の企画者は偉い。原題のままだったら、日本ではここまで有名になってなかったかもしれないですよマジで。

てか、バカンスって基本的に北方文化圏であるところのヨーロッパの人間が、風光明媚で豊かな南方(イタリアとか南仏とか?)へと長期滞在して羽根を伸ばすというイメージがあるんですけど、漂着した島って冬が超厳しい危うく南極圏かってぐらいの島だし。

それに、そもそも十五少年は二年間ほとんど休んでない(笑)。

May 31, 2009

【妄想するべ】今宵NMLにて

NAXOS MUSIC LIBRALYにsignumが参加していることにようやく気付いた。

ということで、気にはなっていたものの未入手のままでいたドホナーニ先生とフィルハーモニア管弦楽団によるライヴ音源集を聴けました!

http://ml.naxos.jp/album/sigcd132
http://ml.naxos.jp/work/283629

いずれもクリーヴランド管弦楽団との既録音がある曲目です。直近で聴き比べはとくにしてませんが。


まずはブラームスの交響曲第2番と第4番のカップリング。

フィルハーモニアは相変わらず巧く、先生の棒もお見事。

4番3楽章後半で乱れが見られる以外に、これといってバランスが変なところもないしこれでライヴだってんだからすげーなぁ・・・。

4番なんか、フィナーレで曲相が盛り上がれば盛り上がるほどに先生は冷静になっていく感じがクールだぜ。


お次はR・シュトラウスの「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」と「英雄の生涯」。

かつての(KDMの記憶上の)DECCA録音よりもグラマラスな音で、リヒャルト節を堪能。

「ティル」。クラリネットとかのソロで妙に芝居がかった演奏をしている(orさせている)。ライトモティーフごとのキャラ立ちが明確で素晴らしい。

「英雄の生涯」も同様の名演ですが「戦場」に入ったときにテンポを上げずに、その代わり各パートをしっかり鳴らし、ダイナミクス中心に表情を作っていくのが最高!

クリーヴランド管弦楽団との録音のときも多分この方向性だったんだと思いますが、録音のせいかこの演奏で大先生の意図がはじめてわかった気がします。確かにこのやり方はカッコイイ。

May 09, 2009

【読んだどー】ヴェルヌ「地底旅行」

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ジュール・ヴェルヌ(訳:石川湧)
「地底旅行」
(角川文庫)

「とっぴんぱらりのぷぅ」で取り上げられていたリストから、たまたま本屋で目に付いた「地底旅行」を。

苦労性の主人公、わめきちらすマッドサイエンティスト、有能な現地人を基本とする探検パーティというのはひとつの型になってますけど、パーティに所属するマッドサイエンティストぶりでは、本作のリデンブロック教授よりもコナン・ドイル「失われた世界」(1912)のチャレンジャー教授に一日の長あり(笑)。
(チャレンジャー教授はほんとナイスキャラだから・・・)

とまれ「地底旅行」が出たのは1864年。秘境探検&生きていた恐竜ものとしてはこっちが先輩。ヴェルヌ先輩。

時代のせいか登場人物たちがひたすらに、飽くことなく、歩く。最後は溶岩に筏が流される(^^;)とはいえ、アイスランドから地中海までほぼ歩いてる。現代人が書く小説では、無理やりにでもご都合主義的な乗り物とかを考えてしまうような気がする・・・。


ちなみに1864年というと、アメリカで南北戦争やってたり、イタリア統一だのドイツ統一だのと国民国家が成立したりする時期。

ということはリデンブロック教授って「ドイツ人」ってたまに形容されてるけど、それ正式には国家名+人じゃなくて民族というか地域というか+人か。強いて国家でいうなら都市国家ハンブルグかな。
(調べたら、1871年のドイツ帝国成立時にもハンブルグは参加してない。そうなんだ~)

ちなみにヴェルヌはフランスはナントの生まれですが、かの国はちょうどナポレオン3世の第2帝政のころ。

wikiをつらつら読んでいたら、アレクサンドル・デュマ・ペールもまだギリギリ生きていて、ヴェルヌとも関わったとのこと。「三銃士」の作者と「地底旅行」の作者がちょっと時期が被ってるというわけです。

デュマが出てくれば田中芳樹「ラインの虜囚」とも繋がって、地下鉄道がこれよりちょっと前にアメリカで活動してたんだな、とか、この世紀の頭の方ではまだナポレオン1世の治世だったんだなとか。歴史好きな作家の作品はズルズル繋がっていくから面白いですな~。

音楽的にいうとワーグナー「トリスタンとイゾルデ」初演の前年でした。ほほ~。

May 01, 2009

【妄想するべ】攻殻機動隊SACひとり再放送

神山監督の著作と新作に刺激され、最近攻殻機動隊SACをPSPに落として見直してます。まずは「笑い男」編を一挙に。

やー、見直してみると発見が多くてほんとに面白い。

CGの使い方も、(実写映画では尺内に詰め込み不可能な量の)会話を中心とした比較的地味な画面構成も、まったく古ぼける気配がありません。

電脳通信ってセリフドラマにとってはかなり便利な設定ですねー。モノローグと電脳通信を駆使することでナレーションはほぼゼロ。これはなんだかんだ言ってすごい。


作風として押井守監督が女性主人公へのベクトルを持ち、神山監督は男性主人公へのベクトルを持つというような旨「映画は撮ったことがない」対談の中で触れられていましたが、攻殻機動隊SACにおける影の主人公は基本的に荒巻大輔とトグサであることをシミジミと再確認。
(逆に、押井版攻殻機動隊の影の主人公は「常に草薙素子を観る者としてのバトー」なわけで。)


さて、会話中心で進行する物語なので脚本はさすがに練れてて、しれっと名言が出てくるのに痺れます。

たとえば公安9課によるナナオA行確中に、別行動の許可を求める草薙素子に対して荒巻課長が発した名言。

「我々の間にはチームプレイなどという都合のいい言い訳は存在せん。あるとすれば、スタンドプレーから生じるチームワークだけだ。」

攻殻機動隊SACにおける公安9課が正義の味方としてブリリアントなのは実にこの点においてですね。

正義の味方が、一致団結して巨悪に挑むなどというのは、端的に幻想だし感動もありません。

よしんば一致団結があったとしても順番が逆なわけです。

巨悪に挑んだから一致団結するんであって、一致団結したから巨悪に挑めるわけじゃない。後者の立場にある限り、実際はチームプレーという都合のいい言い訳にとどまり続けるのです。

互いに独立したスタンドプレーが、犯罪に対して常に攻性である組織として(結果的に)現出するからこそ興奮やカタルシスがあるんですな。


というか、そんなことより重要なのは、このセリフはスタンド・アローン・コンプレックスの概念を表現する重要なニュアンスを含む点です。

それはつまり「集団を志向すれば個別をなし個別を志向すれば集団をなす」という現象のことです。

あくまで現象を示す概念であり何か新しい価値や行動を生み出す「力」ではないという意味において、KDMに言わせればそれ以上でもそれ以下でもありません。

個が消滅する媒介者となるのは意志ではなく現象なのです。

結局のところ草薙素子が実効的な存在として意志的に行動するには、並列化された情報の海(ネットワーク)から帰還するしかなく、それはソリッドステイトソサイエティでもイノセンスでも変わらない「真理」です。
(作家性の傾向として、押井監督は現象を、神山監督は意志を見つめている、くらいの差異は指摘出来るでしょうが。)

ともかくスタンド・アローン・コンプレックスを上記のように捉えることで、物語進行上の影の主人公が荒巻とトグサである一方、この概念について象徴的な主人公の役割を与えられるのが、個別を志向しつつ集団を誘因する「笑い男」と、集団を志向しつつ個別を誘因してしまう「タチコマ」の対比であるという点がハッキリしてくるわけです。


まぁ筆のまにまにツラツラメモってますが、タチコマのセリフにはこんなのも。

「なんだか前にはよくわかんなかった神ってやつの存在も、近頃はなんとなくわかる気がしてきたんだ。もしかしたらだけどさ、数字の0に似た概念なんじゃないかなぁって。要するに、体系を体系たらしめるために要請される意味の不在を否定する記号なんだよ。そのアナログなのが神で、デジタルなのがゼロ。どうかな?」

これは否定神学の考え方そのもの。KDMの理解ではそれが資本主義だったら貨幣になる。どうかな?

最終話で大澤真幸の引用が出てきたりもするし、チャイナな殺し屋はマルクス引用するしで、なるほどKDMみたいな俗物は痺れちゃうはずだよって。

April 30, 2009

【妄想するべ】宵闇のNML

毎夜毎夜NAXOS MUSIC LIBRARYをうろうろ。就寝前のお楽しみ。

ジャズレーベルEnja、Yellowbirdの音源がかなり充実してきました。

Enjaではちょっと前に国内盤でまとめてリイシューされたチェット・ベイカーやエルヴィン・ジョーンズの録音とかも入っててイイ感じ。物欲を緩和してくれてます(笑)

てかEnjaってかなり幅広い音源持ってんだな・・・。セシル・テイラーとかミンガスとかトミフラとかもある。


そしてそしてNMLにKAIROSが参加でございます!wergo,Col legnoに続いて現代音楽を主力とするレーベルが土煙を巻き上げながらの音源アップ!!(イメージ)

さっそくシャリーノとシェルシの室内楽作品集を流して夜のひととき。や~シェルシかっけーな。

続いてノイヴィルト「クリナメン/ノドゥス」&「空間の構築」。

「クリナメン/ノドゥス」まことにスイマメーンは、まさに掴みはオッケー曲。やっぱ掴みって大事なんだな・・・。ぐっと引き込まれました。そのままヤー!と堪能。この曲かっこいいなマジで(こればっか)。

「空間の構築」はトラック1個で45分もかかる。途中で飽きてアウト。ライヴならともかくストリーミング再生の音だけで45分てのはさすがに聴きづらいかな(--;)実際最初の曲ほどインパクトは感じなかった加茂。

ミンガスの「フォーバス知事の寓話」が30分超えでも全然平気なんですけど。

ののyさんの日記読んでふと思いましたが、じきにmodeも参加したりするんじゃなかろうか・・・。てか、ぜひ入ってほしい!!

もう現代音楽中心のレーベルとかはCDからがんがんネットに切り替えるべき(←切り替えてほしい、ともいう・笑)。

すぐ廃盤になっちゃったり極端に流通量が少ないくらいならネットワークに漂い続けてた方がずっとマシじゃけぇ。
(45分1トラックで飽きちゃったりするけど。てへ。)


更にはTimpaniレーベルなんかも摘まみ聴き。

リリー・ブーランジェの詩篇集とか。クセナキス管弦楽作品集だけじゃなくていろいろ気になる音源が多いレーベルでもあります。

それからBerlin Classicsの音源もかなり増えてました。

てかこのレーベルにこんなにバラエティに富んだカタログがあるとは思ってなかったですわ。

徳間経由のシャルプラッテンで独墺系レパートリーのイメージが強かったんですけど、テオドラキスとかアイスラーとかまであったりする。あと新録音も結構あるし。あーびっくりした。

April 26, 2009

【読んだどー】南博「鍵盤上のU.S.A.」

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南博
「鍵盤上のU.S.A. ジャズピアニスト・エレジーアメリカ編」
(小学館)

前著と同じく二重化された面白さで、一挙に読んでしまいました。


ひとつに人生や世界について学んでいくことの普遍性。銀座篇に続いて、箴言がそこかしこにちりばめられております。

また、学ぶという点からいえば、規模は小なり、場所は日本なり、立場はアマなりといえど、音楽をやっていれば強く共感出来たり、なるほどなぁと肯いてしまうところも多かったです。


もうひとつの面白さは、音楽学生の目を通して描かれた(911をひとつの極とする00年代以前の)アメリカ。

これを読んで思うのは、やはりアメリカというのは基本的に異様なところなんだな、ということ。

昨今の世界的不況でうやむやになっちゃいましたが、一時期なんとなくアメリカンスタンダードをガッと目指してたのがファンタジーに思えてきます。


日本においては世間が、歴史が、身内が、しがらみがあるはずの場所に、アメリカでは断絶や他者があるのだろうと感じます。

アメリカはヨーロッパからの移民によって人工的に作られた国家でもありますが、ヨーロッパにおける混血と戦争と歴史の複雑な連続性(たとえばフランス人ルームメートの出自についてのジョークのような)が、アメリカに入ることでまた断絶しています(たとえばポーランド人とポーランド系自動車工との対比に見るような)。

自由はその断絶の裏面である、と。


その変奏として考えるのは、しばしば日本は内向きな島国根性な国だなどと揶揄されもしますが、外敵から断絶しているアメリカだって立派に島国なんじゃないか、ということ。

茫洋としていて広大過ぎて、その内部にいると誰も気付けないだけでその実巨大な島国。国内ではその構造を模倣するようなコミュニティが独自の島を形成していたりもする(田舎町の中華レストランのエピソードに表れているように)。

貧富や教育の格差と相似形をなすように、コミュニティとコスモポリタンというギャップが隣り合わせの島国、アメリカ。

南さんの見たアメリカはその後、覇権国家として君臨する10年間を経て、911と昨今の大不況に突入するわけですが、それらの事象はある意味でアメリカが有形無形のギャップを埋める歴史的必然と捉えることが出来るのかも・・・。

ボストンの街から消えたフッカーやヒップはどこへ行ったのか分かりませんが、アメリカが行こうとしている先もまた分からないのであります。

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