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2009/12/13

【読んだどー】上橋菜穂子『獣の奏者2王獣編』

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上橋菜穂子『獣の奏者2王獣編』(講談社)

あー面白かったー。

これだけ骨子がしっかりした原作なら、全50話という、最近では破格の規模でのアニメ化にも十分に耐えられるというわけですね。

あとがきにアニメ化と続編にまつわる原作者の考えが載っておりましたが、まぁ確かにこの作品を忠実に映像化したらR指定でしたね~(ーー;)

ちょっくら内容の感想も。

エリンが長じて度々感じるむなしさとは、システムを支えるもの(たとえば二項対立)の無根拠さのことでしょう。それを暴くことは真実に迫っているようで実は悲劇に向かっているのです。

しかし一度その欺瞞が暴かれてしまえば、以後そのシステムを維持することはイデオロギーとなります。然らずんば安定的な別システムに移行するのみ、という単純な現実。


イデオロギーとは暴力的で、かつ道化です。ダミアというキャラクタはそれをよく反映してます。よく出来たキャラクタだと思いましたな。


他方、動機ある者に利用されてしまうとはいえ、エリンが純粋なのはシステムに興味がなく、目の前にあるものに集中しているという点にあるでしょう。職人のありふれた姿といえるかもしれません。

21世紀の成熟した近代社会(ポストモダン)は、システム全体を支える構造を志向するのではなく、エリンのような職人の知恵の統合を目指すようになりつつあります。

続編が文庫化と共に発売されているようですが、それも読んでみたいものです。どういう方向へ話が進んでいるのか・・・。

んー。文庫化はまだかなー(^^;)

2009/12/05

【読んだどー】上橋菜穂子『獣の奏者1闘蛇編』

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上橋菜穂子『獣の奏者1闘蛇編』(講談社)

『精霊の守り人』に続き、NHKでアニメ化された上橋菜穂子作品。その第1巻。

アニメ版は最初『精霊の守り人』よりも低年齢向けに見える絵柄がシックリ来なくてちゃんと観てなかったんですが、後藤隆幸さんのキャラデザが相変わらず良質(KDMがガキの頃からずっと良質だった)なのと、内容が結構えぐいのとで、いつのまにか毎週録画して観るようになりました。主人公エリン役はなんと星井七瀬さん。わーたーしーはーなーっちゃん♪だった人。

アニメ版もクライマックスに近づきつつあり、まぁ先もなんとなく見えはじめたし、原作を読んでみました。

文体が平易なのでスイスイ読め、システムを支える二項対立(さすが民族学者。哀悼レヴィ・ストロース先生!)を軸に、それを脱臼するエリンという主人公を配した物語の構成は完成度が高い。グイグイ引き込まれますな~。

エリン(山リンゴ)とかリラン(光)とかセ・ザン(堅き楯)みたいな名詞や距離単位などのネーミングは何に由来しているのか分かりませんが、それっぽいのがいい感じ。ファンタジーにとって命名ってのは最重要事項のひとつですから。

2009/11/30

【CD聴くべ】ベートーヴェン&ブリテン「ヴァイオリン協奏曲」(ヤンセン盤)

Jansenbeethoven






・ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品61
・ブリテン:ヴァイオリン協奏曲 作品15
 ジャニーヌ・ヤンセン(ヴァイオリン)
 ドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメン(ベートーヴェン)
 ロンドン交響楽団(ブリテン)
 指揮:パーヴォ・ヤルヴィ
 録音時期:2009年7月18-19日(ブリテン)、7月30日&8月2日(ベートーヴェン)
 録音場所:ロンドン、アビー・ロード・スタジオ(ブリテン)、ハンブルク、フリードリッヒ・エーベルト・ハレ(ベートーヴェン)
 http://www.hmv.co.jp/product/detail/3675748

ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲は、以前はクソ詰まらん曲だと思っていたんですが、この曲の魅力は旋律美だよ、という類いのことを友人のヴァイオリン奏者に言われて以来、なんとなく開眼。以前は旋律美って視点がすぽっと抜けてたんですなあたくし。

そういう経緯で好きになったからか、ひとつのフレーズに一弓入魂しちゃうような演奏や、ブロック単位で山場を作っちゃうような演奏だといまいち乗りきれず。集中力途切れちゃうんですよねー。

そこいくと、このヤンセンのソロは理想的なもののひとつ。スーッと横に流れて、尚且つ入りも終わりもフレーズや音が崩れない、素晴らしいソロ。

パーヴォ率いるドイツカンマーフィルは室内楽と見紛うほどに見通しの良い演奏を披露してソロと絶妙に絡みつつ、いざトゥッティでは縦のエッジを効かせて(しかしけして過剰ではない)ソロとの対比を出しています。つくづくナイス。

流麗一辺倒だとこの曲の第一楽章なんかは飽きちゃうんですが、緊張感が途切れずに全曲一挙に聴きとおせます。

古楽路線で統一するでも現代楽器路線に集約するでもなく、オケとソリストがそれぞれ持ち味を出し合った感が爽快です。

ロンドン響を起用してのブリテンはこの曲のファーストチョイスになるべき素晴らしいパフォーマンス。ちょっと前に出たツィマーマン盤も良かったですが、この演奏はそれを忘れさせるくらい鮮烈。オケの充実度が段違い。

パリ管も結構ですが、パーヴォとロンドン響なんか最高のパートナーだと思いますな~。

2009/11/21

【読んだどー】村上龍『半島を出よ・下』

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村上龍『半島を出よ 下』(幻冬舎文庫)

カタストロフに向かって情報量と文体の密度を上げていく下巻に心臓バクバク。

書けるわけがないが書かないとはじまらないと最後まで思いながら書いた、と作者自身に言わせるほどの情報量を詰め込んで、しかもそれがプロットが求めているものときちんとリンクしてて、すげー。

戦争だの軍隊だのというと、怠惰な若者がナショナルアイデンティティに目覚めてみたり、国家なんかどうでもいいけど愛する人たちを守るために俺は戦うんだ、みたいなクソなプロットしか作れない凡百の物書きとは出来が違いますな。

ほんとに面白い小説でした。あー元気でるなー村上龍作品は。

2009/11/15

【読んだどー】村上龍『半島を出よ・上』

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村上龍『半島を出よ 上』(幻冬舎文庫)

村上龍さんは節目節目で『愛と幻想のファシズム』『5分後の世界』『希望の国のエクソダス』シリーズなど、膨大な資料をもとにしたシミュレーション小説を発表してますが、現時点でのその集大成とでもいうべき作品。

KDMは村上龍さんの小説はそこそこ読んでるほうだと思いますが、この系統の村上作品が一番好きです。
(逆にW村上のもう一方、村上春樹はほとんど読んだことがない・・・というのも自分自身の文学へのスタンスを何か示しているのでしょうが、文学はほんと詳しくないので判断出来てません。)


さっそく上巻読了。すっげ面白い。下巻も続けて読み始めてます。

北朝鮮のテロリストや兵士が登場するフィクションは結構あるでしょうけど、組織的軍隊として描かれたものとしては空前なのでは?!
(↑面白さのあまりよく調べずにゆってますが^^;)

上巻時点で四個中隊500名が福岡に展開しているし、作戦通りなら下巻では12万、つまり数個師団規模の軍隊が駐屯することとなる(12万といえば現行の自衛隊定員の半数近い数のはず)。上巻の段階でもすでに福岡はほぼ独立国家化しているし。

とにかく参照している資料の数が膨大。下巻の巻末に載っている参考文献だけでも数え切れないほどで、更にチームを組んで北朝鮮、軍事、重火器、爆発物、毒物、動物、政治、経済etc..と関連情報を調査しまくったみたいで、明記できないソースからの情報も含まれているとのこと。

これはある意味で「持てる者」にしか作りえない特権的な作品といえるでしょう。動員できるスタッフの質、人脈や信用などはその辺の零細作家「持たざる者」では太刀打ち出来ませんから。

ことさら感想などを述べる必要もなく、ちょこちょこメモったあらすじだけ読み返していても情報量とストーリーの見事さに興奮します。

経済政策の失敗で国際社会から無視されはじめることで右傾化するにも関わらず、実際に占領されてみれば右往左往するだけで右も左も沈黙するに至り、戦う意志を明確に示すのはマイノリティのみという村上的日本。村上龍さんの描き出すこの国の姿はある種の本質を炙り出してきますな。


あーはやく続き読まねば。

2009/11/03

【読んだどー】オルツィ『紅はこべ』

Benihakobe









バロネス・オルツィ/著 西村孝次/訳『紅はこべ』(創元推理文庫)

フランス革命の混乱期を舞台にした冒険小説。

ちょっとご都合主義なとこもあるにはありますが、紅はこべはなかなかカッコイイし、悪役ショーヴランもかーなーりーヤな奴で、楽しめます。

『二都物語』なんかに比べて通俗的過ぎるとの批判もあるとのことですが、まー、望むところでしょう(笑)

作者が女性ということもあり、こういう作品にしては珍しく女主人公マルグリートが視点キャラクタ的なポジションになっています。

もしかしたらハーレクインとかの源流はこの辺の作品なのかも。
(ハーレクインとか一個も読んだことないからあてずっぽうでいってますが・笑)


フランス革命期を舞台にした冒険ものって、すでにひとつのジャンルとしてかなりの数の作品があると聞き及びます。

ナポレオンが表舞台に出てくる前辺りに時代設定すると、とにかく混乱してるから何でも捩じ込める隙間があるんでしょうかね。

映画でも学生時代に深夜の時間帯に「ジェヴォーダンの獣」(これは実際の革命のちょっと前だけど)とか観たことあるし。そのうちこの流れで『スカラムーシュ』も読んでみようかと。

2009/10/25

【妄想するべ】ナマ

朝まで生テレビを見ました(笑)

東浩紀さんが出演される、ということで。

いやー。面白かったです。

朝まで生テレビなんて、これまで面白い番組だとはひとっつも思えませんでしたが、あーそっか、議論の中心になるほど頭の良い人が出てなかっただけなんだーと納得。

これまで田原総一郎さんがおじいちゃんぽくイライラして、それが出演者を困らせるだけの番組だと思ってました(笑)

実際東さんの最初の発言まではそうなってたし。

で、東発言以降空気がガラッと変わる・・・。

そうなると田原さんや猪瀬さんや小沢さん、堀さんなどの経験談や知識が有機的に利用もされて、建設的な方向性が出てくる、と。

東発言までは、彼らは単に嫌味なだけオトナだった(笑)
(森永さんだけは最初から最後までドジなマスコットでしたけど・・・。本人の意思はわかりませんが、もうそういう立ち位置確立しちゃいましたな。テレビ的に。)

とにかく東発言がなければ、単なる30代苛め20代沈黙の番組に成り下がり、見た人の世の中に対する閉塞感を増大させるだけになるところでしたよまじで。

未来の福祉のあり方(ベーシックインカムとか)やロールモデル(介護ビジネスでも高給取りになる可能性だってある)というのが出せたなんてすげー番組じゃないの、と。

もうあの番組の内容で、ベーシックインカム導入して食料など一部を除いて消費税どかんと上げて相続税上げて、システムとデータベースにバグのあるような、年金をはじめとする各システムはオープンにしてから順次廃止して、そんでまともなもんにリプレースしていけばなんとかなるんじゃないかって希望的な物語すら語れますから(笑)

(ちなみに、閉塞とは希望的な物語が語れないからこそ発生するわけですが、森永さんなどはそのカウンタとして、既存の枠組みの中で希望的物語を語ろうとして道化になっているわけです。そういう意味では森永さんの希望的物語と東さんの未来論的立場の対比はけっこう面白かったと思います。)


民主党についてだってそれほどネガティブキャンペーンになってかったし。むしろ努力賞をあげてもいいというニュアンスすら感じられる内容でした。

辻川さんは苛立っていたようですが、そういう政治や経済の話も文脈が整理されてて聞いててもとくに辛くなかったです。

【読んだどー】光瀬龍『百億の昼と千億の夜』

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光瀬龍『百億の昼と千億の夜』(ハヤカワ文庫)


SFはこれまでほとんどちゃんと読んだことなかったので、この頃有名どころを読んでみよっかなー的な気分になってます。

で、かなり前に買ったまま放置プレイしていたコレを読みました。

・・・有名どころなのかは分かりませんが・・・。

押井守さんはこの作品を映画化しようと考えている(いた?)と聞いたことありますが、なかなかどうして誇大妄想的SFで、これをちゃんと映像化するなら確かに現在の押井さんくらい、能力的・環境的に映像そのものへ拘泥出来る映像作家が必要でしょうね~。

まぁ大昔に少女マンガにはなってるみたいですけどね。へ、へぇ・・・そうなん・・・だ・・・。zzzz。としか。

っつーかプラトンとゴーダマ・シッタールダ(いわゆるお釈迦様)と阿修羅王が出てきてイエス・キリストと超振動発生装置とかレーザーとか使って戦っちゃうんだから。しかもサイボーグ化して。

いまどき中途半端な映像でやったら、もうコントにしかみえないでしょうからなぁ。


とりあえず中盤までのプロットは多神教的世界観(古代ギリシアやインド)vs一神教的世界観(弥勒信仰、キリスト教)。一神教側のボスはそのものずばりMIROKU。その尖兵がナザレのイエス。どっぴゃー。

で、多神教的世界観は敗北するんですけど、一神教的な方も擬人化された時点で偶像化しちゃってるのでなんとなく消えちゃう。さらに上位の神(転輪王)がいるらしいことが分かって、更に「シ」と呼ばれる擬人化しきれない何かの存在が仄めかされて終幕。

・・・とまぁ、ナザレのイエス、弥勒、転輪王…と、実体的に表現しようとすれば無限に上位者を見出だしていかざるをえない否定神学を地でいくような展開になっているというわけです。「シ」というのはその無限の階梯そのものの謂いでありましょう。

あとがきから読むに、時間や世界の相対化の結果「認識論の虚無に落ち込んでゆくだけ」であり「果たしてそこで思考を打ち切ってよいのだろうか」という疑問に突き動かされているといいますが、あるいはその飽くなき疑問の連鎖が転移したものこそ、「シ」といってもよいでしょう。

それはMIROKUや転輪王のように具体化(偶像化)した時点で「シ」ではなくなるので、あくまでも仄めかされる存在でしかありえません。

作者は哲学も勉強してたといいますが、その点だけ見れば20世紀的で、ほぼ教科書通りというプロットになっております。

もっともこの作品の魅力の源は、殺伐としていながら詩的な、その文体の方にあるかと思いますけども。

2009/10/18

【読んだどー】東浩紀『批評の精神分析 講談社BOX 東浩紀コレクション D』

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東浩紀
『批評の精神分析 講談社BOX 東浩紀コレクション D』
(講談社)


LSDシリーズ最後。今回も箴言の宝庫でホクホクですよ。

L→S→Dと読み進めてくると、宮台さんや大澤さんなどとの対話は東浩紀的ボキャブラリの相対化(というか言い換え)作用もあります。

理解が曖昧だったものが「あ!そういうことか!」とシナプスがプスっと繋がるように(くだらねー)急に見通し開けたり、しっかり理解してたつもりのことが「あれ?そういうことなんでしたっけ?」みたいに曖昧になったりします(笑)いろんなボキャブラリが連携して知識が多面化するって感じ。

実際『動物化するポストモダン』とか『ゲーム的リアリズムの誕生』を読んで「納得いかん!」と思っている人ほど、この対談集は示唆に富むかもしれません。

東さんも本書内コメントでいっていますが、大澤さんとの対談(あるいは彼が参加した鼎談)はとくに面白いです。第11章など、漠然とKDMが感じていたような倫理感みたいなものを言葉にしてもらった気がして、なんだか勇気が湧いたりしましたな~(^^;)

ほかにも、稲葉振一郎さんとの対談の中での構造主義的アプローチへの言及とかすごく刺激的でした。


LSDシリーズを一通り読んで・・・というかこの10年ほど継続して東さんの仕事を追ってきたことの効用として、「個人的に」教養を深めたりなんらかの技術獲得のために訓練したり、ともかくなんつーかいろいろ止揚するような「俺モダニズム」と、現代社会全体とかを俯瞰したときに見出せるポストモダン的状況は別に統合出来なくてもいいんだなぁと、妙に元気が出たことが挙げられます。

個人的にモダンであることと全体としてポストモダンであることは矛盾しないし、させないようにするべ、と。

これポストモダンフォビアかポストモダニストかに関わらず、人間と社会全体の問題はいずれにせよ統合せにゃならん、と思い込んでいる人って多いと思うんですよね。20世紀に精神分析的なイシューが思想的な広がりを見せたみたいに。

KDM自身も数年前まではそうでした。

こういう態度はなんだかもう、すごく疲れるんですよね。

考えてるうちはなんだかうまく行きそうな気にさせるんですけど、実際は全然うまく行かないんですもん。ニューアカ方面で挫折した(あるいはそう見える)人々の多くは、たぶんそれで苦しんでるんだと思うんです。

結局そういう「統合できんじゃね?」という思い込み自体が、近代からポストモダニズムまでを貫く否定神学的な陥穽だったんじゃないか、と。


あと是非メモっておきたいのは「萌え」について。

かつては性倒錯の一種と考えたりもしていたんですが、現象としてちょっと無理があるな~と思いつつあったところでした。

性倒錯なら基本的に個人的でマイノリティなもののはずなのに、市場としても現象としても大き過ぎるしオープン過ぎるな、と。

そうしたとき、このLSDシリーズの中で一貫して「萌え」とは「図像に対する身体的な訓練に過ぎない」「単なる性欲や感情移入などではなく、記号と快楽を人工的に結びつけて作り出された抽象的な欲求。たとえばメイド萌えはメイドという記号に快楽のチャンネルを合わせていく脳内チューニングの結果に過ぎず、そこに母の幻像を見たり女性恐怖の代償を求めたりしているわけではない」と定義されており、確かにそうだ!と膝を打った次第です。

たとえば性欲を満たすため、お洒落したり美味しい店みつけたり駆け引きしたりetc..と努力するのが「モテ」なんだとしたら、そういう努力を技術的に簡素化し、模倣の連鎖と技術的なコピーによって増殖と差異化が絶えず進行していて入手用意な図像の方に身体を合わせていくようなのが「萌え」。

実際の倒錯を表現したものが変態的な萌え図像なわけではなく、差異化の果てにほとんど確率的に現出した倒錯的な図像が先にあって、それでも性欲を満たせるように訓練しているだけだっつーことですね。

「動物的」という形容にはそういう身体的な馴致の視点もあるというわけです。

萌えならぬモテに邁進するオシャレボーイ&ガールズが欲望を満たすために止揚を重ねるモダンな人間的人間ならば、モテならぬ萌えでマッタリ且つサクッと欲望を満たすオタクはポストモダンな動物的人間。。。と思いきって分類しちゃうのもあながち間違ってないかもしれません。

加えていえば、特定個人においてモテ的自分と萌え的自分をTPOに応じて(意識するかしないか問わず)使い分けてることだって普通にありえるでしょう。人間には人間的側面と動物的側面がある、ただそれだけ。


性犯罪と萌えを結びつける議論ってもともと肌で感じる実感として結びつかなかったんですが、「萌え」を以上のように考えると、因果関係はますます説明困難になりますね。

本書の内容からちょっと離れちゃいますが、、、、

欲望を満たす方法として犯罪行為に手を出すってのは、仮に相対的弱者(未成年とか女性とか)を狙ったとしても社会的にリスキーで非効率的。

その意味で、未成年や相対的弱者を狙ったりする性犯罪てのは、被害者に取り返しのつかない傷をつける物凄く迷惑な自傷行為とも言えるので、ここでの萌えの定義からはかなり遠い。

犯罪抑止の観点ではACだのなんだのといった精神分析が無力なのと同じように、萌えようが萌えまいがモテようがモテまいが、やっちゃう奴はやっちゃう。悲しいかな。

むしろ因果関係をでっちあげたりしたら、精神鑑定や犯罪当時の心身微弱みたいに、犯罪者に対してある種エクスキューズの効果を持つ弊害の方が大きいんじゃないですかね。

「自分が性犯罪を犯したのは、萌えが氾濫する現代社会のせいです。むしろ自分は被害者です」などという、クズみたいな妄言にお墨付きを与えるようなもんですからな。
(法律や裁判には詳しくないから的外れなこといってるかもしれませんけど・・・)

いずれにせよ、罪を憎んでモテ/萌えを憎まず、と。

2009/10/12

【読んだどー】森博嗣『スカイ・イクリプス』

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森博嗣『スカイ・イクリプス』(中公文庫)

『スカイ・クロラ』シリーズ最後の作品で短編集。

このシリーズは提出される謎が多く、いろいろなところでいろいろな解釈があるようです。

しかし与えられている情報が断片的なので決定的な正解は見出せなさそう。実際には精密で詳細な設定があるのでしょうが・・・。

しかしそもそもこのシリーズはもっと文学的・詩的なシリーズだと思います。それをいっちゃおしまいよ、かもしれませんけど。。。

作品世界の諸々を象徴的に分類してみますと、

・地上的なもの=大人。複雑で汚れたもの。戦争を遂行している企業と社会。有限性。
・空的なもの=成長しない純粋な子ども(キルドレ)。戦闘機を駆っての空戦(ダンス)。無限性。

という風になるでしょう。


様々な人が『スカイ・クロラ』シリーズは青春小説であると指摘しています。

なるほどキルドレとは、理念としての青春そのものといえるかもしれません。

それは純粋で誇り高く崇高なものであり、且つ「無限であるかのような錯覚」に満ちています。

前者の特徴は飛行シーンの透明感溢れる美しい文体とキルドレたちの活き活きとした描写に象徴され、後者の特徴は記憶が蓄積されないが戦闘技術だけが共有化されて転生するキルドレの特質によって象徴されています。

いうまでもなくそのような「青春」は、大人たちに利用され続けるものだし(キルドレを利用して戦争状態を演出し続ける企業)、最終的に勝利者となることはありません(キルドレはティーチャに必ず敗北する)。


他方で、この物語はキルドレたちだけの物語ではなく、大人たちについての物語でもあります。

キルドレはある種「動物的」です。
(KDMが時間的にほぼ並行して東浩紀さん辺りを読んでいたのでよりそう思わされるわけですが)

戦闘機で空へと舞い上がり、虚構の戦闘の中で生の充足(快感)を得て、また空へ上がるために地上へ帰還します。

そのようなまやかしの生に対して、地上的な大人たちの方が人間らしく幸福そうかといえば、まったくそんなことはないというのがこの小説の肝でしょう。

先述したとおり青春は利用された果てに敗北が待つしかないものでありますが、それに対して大人たちの方を勝利者と呼べるような描かれ方にはなっていないわけです。場合によってはキルドレ以上にまやかしの現実に生きている感覚に支配されてしまっています。

どちらも奇妙な「無意味感」に支配されており、あえて大人であるか、あえて虚構の充実であるかの違いがあるだけです。


そのうえでなぜ『スカイ・クロラ』が青春小説と認識されるのか。(少なくとも現時点で)個人的に感じたことを書き記しておきます。


「あえて」のふたつの様相が作品中では危ういバランスをとって進みますが、しかし結局語られる物語は常にひとつであります。

事実上の最終章『スカイ・アッシュ』ではキルドレでなくなったクサナギ(らしき人物)が登場しますが、そこではあれだけ焦がれた空への執着は薄れ、記憶の重畳と成長(=老化、成熟)が見られるようになっています。

青春を描くとしたら、青春を捨てることでしか成長できないこと、またそうすべきであることを示せなければ嘘になるだろうとKDMは思っていますが、『スカイ・アッシュ』で幕を閉じるシリーズはその意味で誠実な青春小説だと考えます。

その誠実さがなければ、脆弱であるが愛すべき「青春の価値」といったものが虚構性に絡めとられ、別の問題系・関心系への扉を開きつつも、青春小説としての輝きは翳ったことでしょう。

『スカイ・クロラ』シリーズはあえて、青春小説の道を選んだのだと、KDMは考えます。

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