神山監督の著作と新作に刺激され、最近攻殻機動隊SACをPSPに落として見直してます。まずは「笑い男」編を一挙に。
やー、見直してみると発見が多くてほんとに面白い。
CGの使い方も、(実写映画では尺内に詰め込み不可能な量の)会話を中心とした比較的地味な画面構成も、まったく古ぼける気配がありません。
電脳通信ってセリフドラマにとってはかなり便利な設定ですねー。モノローグと電脳通信を駆使することでナレーションはほぼゼロ。これはなんだかんだ言ってすごい。
作風として押井守監督が女性主人公へのベクトルを持ち、神山監督は男性主人公へのベクトルを持つというような旨「映画は撮ったことがない」対談の中で触れられていましたが、攻殻機動隊SACにおける影の主人公は基本的に荒巻大輔とトグサであることをシミジミと再確認。
(逆に、押井版攻殻機動隊の影の主人公は「常に草薙素子を観る者としてのバトー」なわけで。)
さて、会話中心で進行する物語なので脚本はさすがに練れてて、しれっと名言が出てくるのに痺れます。
たとえば公安9課によるナナオA行確中に、別行動の許可を求める草薙素子に対して荒巻課長が発した名言。
「我々の間にはチームプレイなどという都合のいい言い訳は存在せん。あるとすれば、スタンドプレーから生じるチームワークだけだ。」
攻殻機動隊SACにおける公安9課が正義の味方としてブリリアントなのは実にこの点においてですね。
正義の味方が、一致団結して巨悪に挑むなどというのは、端的に幻想だし感動もありません。
よしんば一致団結があったとしても順番が逆なわけです。
巨悪に挑んだから一致団結するんであって、一致団結したから巨悪に挑めるわけじゃない。後者の立場にある限り、実際はチームプレーという都合のいい言い訳にとどまり続けるのです。
互いに独立したスタンドプレーが、犯罪に対して常に攻性である組織として(結果的に)現出するからこそ興奮やカタルシスがあるんですな。
というか、そんなことより重要なのは、このセリフはスタンド・アローン・コンプレックスの概念を表現する重要なニュアンスを含む点です。
それはつまり「集団を志向すれば個別をなし個別を志向すれば集団をなす」という現象のことです。
あくまで現象を示す概念であり何か新しい価値や行動を生み出す「力」ではないという意味において、KDMに言わせればそれ以上でもそれ以下でもありません。
個が消滅する媒介者となるのは意志ではなく現象なのです。
結局のところ草薙素子が実効的な存在として意志的に行動するには、並列化された情報の海(ネットワーク)から帰還するしかなく、それはソリッドステイトソサイエティでもイノセンスでも変わらない「真理」です。
(作家性の傾向として、押井監督は現象を、神山監督は意志を見つめている、くらいの差異は指摘出来るでしょうが。)
ともかくスタンド・アローン・コンプレックスを上記のように捉えることで、物語進行上の影の主人公が荒巻とトグサである一方、この概念について象徴的な主人公の役割を与えられるのが、個別を志向しつつ集団を誘因する「笑い男」と、集団を志向しつつ個別を誘因してしまう「タチコマ」の対比であるという点がハッキリしてくるわけです。
まぁ筆のまにまにツラツラメモってますが、タチコマのセリフにはこんなのも。
「なんだか前にはよくわかんなかった神ってやつの存在も、近頃はなんとなくわかる気がしてきたんだ。もしかしたらだけどさ、数字の0に似た概念なんじゃないかなぁって。要するに、体系を体系たらしめるために要請される意味の不在を否定する記号なんだよ。そのアナログなのが神で、デジタルなのがゼロ。どうかな?」
これは否定神学の考え方そのもの。KDMの理解ではそれが資本主義だったら貨幣になる。どうかな?
最終話で大澤真幸の引用が出てきたりもするし、チャイナな殺し屋はマルクス引用するしで、なるほどKDMみたいな俗物は痺れちゃうはずだよって。
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