
東浩紀
『批評の精神分析 講談社BOX 東浩紀コレクション D』
(講談社)
LSDシリーズ最後。今回も箴言の宝庫でホクホクですよ。
L→S→Dと読み進めてくると、宮台さんや大澤さんなどとの対話は東浩紀的ボキャブラリの相対化(というか言い換え)作用もあります。
理解が曖昧だったものが「あ!そういうことか!」とシナプスがプスっと繋がるように(くだらねー)急に見通し開けたり、しっかり理解してたつもりのことが「あれ?そういうことなんでしたっけ?」みたいに曖昧になったりします(笑)いろんなボキャブラリが連携して知識が多面化するって感じ。
実際『動物化するポストモダン』とか『ゲーム的リアリズムの誕生』を読んで「納得いかん!」と思っている人ほど、この対談集は示唆に富むかもしれません。
東さんも本書内コメントでいっていますが、大澤さんとの対談(あるいは彼が参加した鼎談)はとくに面白いです。第11章など、漠然とKDMが感じていたような倫理感みたいなものを言葉にしてもらった気がして、なんだか勇気が湧いたりしましたな~(^^;)
ほかにも、稲葉振一郎さんとの対談の中での構造主義的アプローチへの言及とかすごく刺激的でした。
LSDシリーズを一通り読んで・・・というかこの10年ほど継続して東さんの仕事を追ってきたことの効用として、「個人的に」教養を深めたりなんらかの技術獲得のために訓練したり、ともかくなんつーかいろいろ止揚するような「俺モダニズム」と、現代社会全体とかを俯瞰したときに見出せるポストモダン的状況は別に統合出来なくてもいいんだなぁと、妙に元気が出たことが挙げられます。
個人的にモダンであることと全体としてポストモダンであることは矛盾しないし、させないようにするべ、と。
これポストモダンフォビアかポストモダニストかに関わらず、人間と社会全体の問題はいずれにせよ統合せにゃならん、と思い込んでいる人って多いと思うんですよね。20世紀に精神分析的なイシューが思想的な広がりを見せたみたいに。
KDM自身も数年前まではそうでした。
こういう態度はなんだかもう、すごく疲れるんですよね。
考えてるうちはなんだかうまく行きそうな気にさせるんですけど、実際は全然うまく行かないんですもん。ニューアカ方面で挫折した(あるいはそう見える)人々の多くは、たぶんそれで苦しんでるんだと思うんです。
結局そういう「統合できんじゃね?」という思い込み自体が、近代からポストモダニズムまでを貫く否定神学的な陥穽だったんじゃないか、と。
あと是非メモっておきたいのは「萌え」について。
かつては性倒錯の一種と考えたりもしていたんですが、現象としてちょっと無理があるな~と思いつつあったところでした。
性倒錯なら基本的に個人的でマイノリティなもののはずなのに、市場としても現象としても大き過ぎるしオープン過ぎるな、と。
そうしたとき、このLSDシリーズの中で一貫して「萌え」とは「図像に対する身体的な訓練に過ぎない」「単なる性欲や感情移入などではなく、記号と快楽を人工的に結びつけて作り出された抽象的な欲求。たとえばメイド萌えはメイドという記号に快楽のチャンネルを合わせていく脳内チューニングの結果に過ぎず、そこに母の幻像を見たり女性恐怖の代償を求めたりしているわけではない」と定義されており、確かにそうだ!と膝を打った次第です。
たとえば性欲を満たすため、お洒落したり美味しい店みつけたり駆け引きしたりetc..と努力するのが「モテ」なんだとしたら、そういう努力を技術的に簡素化し、模倣の連鎖と技術的なコピーによって増殖と差異化が絶えず進行していて入手用意な図像の方に身体を合わせていくようなのが「萌え」。
実際の倒錯を表現したものが変態的な萌え図像なわけではなく、差異化の果てにほとんど確率的に現出した倒錯的な図像が先にあって、それでも性欲を満たせるように訓練しているだけだっつーことですね。
「動物的」という形容にはそういう身体的な馴致の視点もあるというわけです。
萌えならぬモテに邁進するオシャレボーイ&ガールズが欲望を満たすために止揚を重ねるモダンな人間的人間ならば、モテならぬ萌えでマッタリ且つサクッと欲望を満たすオタクはポストモダンな動物的人間。。。と思いきって分類しちゃうのもあながち間違ってないかもしれません。
加えていえば、特定個人においてモテ的自分と萌え的自分をTPOに応じて(意識するかしないか問わず)使い分けてることだって普通にありえるでしょう。人間には人間的側面と動物的側面がある、ただそれだけ。
性犯罪と萌えを結びつける議論ってもともと肌で感じる実感として結びつかなかったんですが、「萌え」を以上のように考えると、因果関係はますます説明困難になりますね。
本書の内容からちょっと離れちゃいますが、、、、
欲望を満たす方法として犯罪行為に手を出すってのは、仮に相対的弱者(未成年とか女性とか)を狙ったとしても社会的にリスキーで非効率的。
その意味で、未成年や相対的弱者を狙ったりする性犯罪てのは、被害者に取り返しのつかない傷をつける物凄く迷惑な自傷行為とも言えるので、ここでの萌えの定義からはかなり遠い。
犯罪抑止の観点ではACだのなんだのといった精神分析が無力なのと同じように、萌えようが萌えまいがモテようがモテまいが、やっちゃう奴はやっちゃう。悲しいかな。
むしろ因果関係をでっちあげたりしたら、精神鑑定や犯罪当時の心身微弱みたいに、犯罪者に対してある種エクスキューズの効果を持つ弊害の方が大きいんじゃないですかね。
「自分が性犯罪を犯したのは、萌えが氾濫する現代社会のせいです。むしろ自分は被害者です」などという、クズみたいな妄言にお墨付きを与えるようなもんですからな。
(法律や裁判には詳しくないから的外れなこといってるかもしれませんけど・・・)
いずれにせよ、罪を憎んでモテ/萌えを憎まず、と。
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