佐藤優/著
『日本国家の神髄 禁書『国体の本義』を読み解く』
(扶桑社)
課題図書読了。ふー。
本書の骨子自体は結構単純で「超越的なものを戴くことで資本主義を超克しよう」というものです。また全体を貫く論旨は佐藤氏の『私のマルクス』とも通低しています。
ここで資本主義とは「アトム(原子、個)」を基礎とする弱肉強食の殺伐とした世界観とほぼ同義とされています。対して、超越的存在のもとでの紐帯(モナドと表現されたりしていますが)で以って寛容と多元性を回復するのだ、というわけです。
ただ、自分にはその戦略の有効性に疑問があります。
イエスだろうと皇統だろうと超越的なるものとは常に「なんか知らんがそうなったもの」です。つまりは歴史的なものだということですが、未来志向の視点からは以下のように言い換えられます。
1.「これからどうなるか」を指示したり保証したりするわけではない
2.また、これからどうなっても、超越的なるものはあるがままにあるだけ
これらは長所にも短所にもなります。長所については、きっと本書で論じられている通りなのでしょう。
自分にはこれが短所として、常に後出しジャンケンで勝ち続けるような代物に思えてなりません。
過日、「天皇陛下の御為」「国家のため身命を賭して」「国体を護持し奉らん」とのお題目を掲げつつ破滅に突き進んだ日本。後日、識者は曰く「それは国体について正しく理解していなかったからに過ぎぬ」と。
これは「良かったことは良かったね。悪かったことは悪かったね」という、上から目線ならぬ後から目線によるトートロジーでしかないように思えます。これでは国が百遍転覆しても、国体の正しさはなくならないことになってしまう。
あるいは、だからこそ良いのだ、という発想なのかもしれません。デフレだ円高だと戦々恐々とする一方、皇族に対して敬意みたいなものを覚えたり、寺社仏閣に行ってちょっと気分良かったりというのは、こんな自分にも自然とある感情です。いわんや震災後の人心をや。
しかし、それでもやはり破滅を未然に回避出来ないのでは意味がないとも思うわけです。少なくとも数十年前に日本は破滅的状況を回避出来なかったし、つい前年も原発を安全に運用し切れなかった…それが現実なわけです。
ところで、資本主義をベタに受け入れるのではなくカウンターを持つべしという議論は正しい問題意識で、反論の余地も反対する理由もありません。というか、ありふれた話でさえあります。
「日本の危機だから、今また主張するのだ」と本書からは読めますが、明治以来この種の議論が絶えたことなど一度もないと思います。
事程作用に反復されている以上、疑問に思わずにおれません。(トートロジーと言わぬまでも)単なる無限ループで、故にこそ危機的なんじゃないのか、と。
というのも、「バラバラなアトムを、超越的存在(国体)で縫合する」という一見真っ当なあらすじ自体、モダンとポストモダンを巡る無限ループそのものであると考えるからです。
具体的な分析はここでは端折っちゃいますが、ざっくり言えば「超越者は如何にして超越的か」という構造を内面化したものがアトムです。
ポストモダニズムは、モダニズム(=存在とはなにか)の分析とその抽象化・普遍化の果てに「超越<論>的なもの」を見出します。佐藤氏の言う「アトム」は「超越<論>的なもの」とほぼ同じことを言っていると思います。
なにゆえ「論」と表現されるのかといえば、あらゆる特殊的・具体的な「超越者」を包含した上でも機能するほどに「強い」概念だからです。
アトムというのは、国体やらイエスやらという超越的なものと比べたとき、単純な力関係の意味で圧倒的に強く「超越しているもの」であり、超克出来ません。
資本主義は常に既に特殊的・具体的世界の「外部」にあると表現されるのは、このことでしょう。
そもそも資本主義と相容れる「世界」などどこにも存在しないのです。にも拘らず、資本主義は世界中を席巻する。つまり国体が確立されていようといまいと、資本主義には関係がありません。
アトム(≒超越<論>的なもの)とは、「超越」構造における倒せないラスボスです。ラスボスが倒せない以上、超克の物語としては永遠に完結せず、無限ループの一丁上がりというわけです。
右翼・左翼問わず「資本主義最強。でも弱肉強食でえげつない。ゆえにバッファあるいはセーフティネット必須」という認識が、下世話なレベルで、前提として共有されていると自分は考えます。
更に、両者共に抽象的なレベルにおいて「超越」という構造を共有しているのではないか、と思います。
そのうえで分類すれば
・右翼は「超越的なもの」のもとへの滞留を志向する
・左翼は「超越<論>的なもの」の理論的超克(超越論の超越?!)を志向する
という差異を持つと考えます。
現実的な右翼は夢見がちな左翼に対して常に勝利し、左翼は倒せないラスボスに挑み続けることで永遠に戦い続ける…。
本書でも「まともな左翼がいないから右翼が育たぬのだ」と明言されています。つまり「超越」構造における左右両翼(超越論と超越)は堂々巡りだということです。
佐藤氏は「堂々巡る」ことが大事なのだとお考えなのかもしれませんが、その徒労感こそがファシズム、更にはナチズム(荒唐無稽だがハッキリだけはしているw)の呼び水になるのではないか…。自分はせっかちだからか、そのように思えてしまいます。
かといって無論、資本主義原理主義/至上主義というのは成立し得ません。資本主義それ自体は行動原理にはならぬからです。
そこで自分は以下のような作業仮説を立てます。
・行動原理としての思想は、右翼/左翼の論理しかない。
・だが双方共に実は構造としては相似形であり、二者択一では構造的特徴は持ち越し続けることになる(=堂々巡り)。
・ゆえに、端的に別の構造による補完を必要とする。
・具体的には新自由主義。新自由主義は、右翼/左翼の置換ではなく補完として発想されるべき。
・新自由主義を市場原理主義と看做すのではなく、最低限の社会保障を構造的に確保することと考え、堂々巡りの層との二層構造として社会を設計する。
自分は国体ではなく、東浩紀氏のデータベース論や一般意志2.0により説得力を感じているので、こういう作業仮説になります。
一般意志2.0などの議論は、東氏自身明言している通り、新自由主義、リバタリアニズム、小さい政府論etc..と近しい発想です。同時に、「超越」構造の置換や超克を目指すものではなく、補完を目指すものです。
東氏は直接民主制や集合知による政策決定を主張したことは【ない】という点がとても重要です。
実際、新自由主義は、ベーシックインカムでも負の所得税でも、ともかく最低限の生存の保障を【裁量ではなく構造として】確保しましょう、という以外の行動原理を持ちません。
「思想」=「行動原理となるもの」と厳密に定義づけたとき、「思想」としての新自由主義は「最低限の社会保障を構造的に持たぬ市場原理主義を禁止する」というの「禁止の言葉」に言い換えることが出来るでしょう。
更に保障を積み上げるかどうかさえも自由なのだ…というか、それを議論するのが思想であり政治である…仮に堂々巡りであっても…ということでしょう。
少なくとも新自由主義は、最低限を越えて社会保障を整備することを【禁じる】ことはないわけです。
…まぁ思いつくまま書き綴りましたが、単純にひとつ分かったことは、どうやら自分は、神話にラノベやクラシック音楽の元ネタ以上の興味は持てそうにない(というかその範疇においては超興味がある)ということでしょうか…。どうしても単なるフィクションとしてしか受容出来ませんでした。
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