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2012/05/14

【CD聴くべ】ハンス・ロット交響曲(P・ヤルヴィ盤)

ハンス・ロット:
・交響曲第1番ホ長調
 1.第1楽章 アラ・ブレーヴェ
 2.第2楽章 非常に遅く
 3.第3楽章 明朗に、生き生きと
 4.第4楽章 非常に遅く-活発に
 録音時期:2010年4月15,16日
 録音場所:フランクフルト、アルテ・オーパー


・管弦楽のための組曲への2つの楽章
 1.スケルツォ アレグロ・コン・ブリオ
 2.終楽章 非常に早く
 録音時期:2010年6月29日
 録音場所:フランクフルト、ヘッセン放送ゼンデザール

 フランクフルト放送交響楽団
 パーヴォ・ヤルヴィ(指揮)

カリンニコフに続きクラヲタ諸氏が「発見」して、ここ十年来話題になっていたハンス・ロットの交響曲。興味はあったがなんとなく聴かずに来てました。

しかしパーヴォ・ヤルヴィ&hr響が録音したとなれば飛び付かずにはおれません。

ブルックナーとマーラーを繋ぐミッシングリンクとも形容される本作は、大変聴き応えのある名作。

実際、ロットの(不幸なる)経歴を見ても、現実にマーラーに影響を与えた可能性は充分あります。


3楽章以外はかなりブルックナーっぽい。1楽章の終結部分など、ブルックナーのスケッチからどこかの作曲家が作ったと言っても通りそうです。

ブルックナーよりもメロディやフレーズの起伏が多くてちょこちょこ動くので、意外と聴きやすいです。

盛り上がりポイントが定期的に仕掛けられていて、しんねりむっつりな後期ロマン派にありがちな「どこを聴いてもだいたい一緒」感(笑)は薄く、気持ちがいい。低回趣味逆噴射。


そして超とんがってる3楽章はほぼマーラー。しかもマーラーの初期交響曲よりもずっと先鋭的に響く。物凄くカッコイイ。音楽史的に言えば、確かにブラームス風情に理解できなかったのも仕方がないかもしれません。

吠える金管、えぐるようなティンパニを中心に白熱した演奏がその印象をより鮮明にします。同時発売のブルックナー第5ともども、hr響のやや暴れ気味の金管楽器群が映える映える(笑)


そして全般にわたって言えるんですが、ロットさんトライアングル好き過ぎ(笑)

ティンパニのロールに、刻まれるベースに、消えていくトランペット(2楽章の終わりとか「ここでも入れるんだ・笑」て感じ)に、更に一味!シェフもこみちで言うところのオリーブオイルですね(笑)

もう終楽章なんかフォルテのトゥッティになると「辛抱たまらんばい!!」とどばどばと鳴ります。

そりゃあ、こんだけ多用されたら後発のマーラーはハンマーとかカウベル持ってくるしかないぜ!(笑)


オケさえ上手ければ、実演での演奏効果もかなり高いはず。大変気に入りました。俄然既存の別録音にも興味が沸いてしまいます。

ヴァイグレ盤、セーゲルスタム盤などは是非聴いてみたいものです。


2012/05/09

【CD聴くべ】eufonius「フォノン」

eufonius「フォノン」
(ランティス/ソニー・ミュージックディストリビューション)


コードに詳しい人ほど「なんじゃこりゃあ!」となるであろう不思議な進行と、そこから生み出される崩れそうで崩れないメロディー。

将来的にはeufoniusの楽曲を隅々までアナライズするのが秘かな目標でもあり(笑)、eufoniusの楽曲を分析しきれる耳と知識が手に入るなら悪魔と契約しても良いと思イムエッサイムです。


ゆらゆらした構造が、編曲・録音・ミックス諸々含めた全体のサウンドの猛烈な心地よさと組合わさることで、独特の世界を作っています。

もともと録音の良いアーティストですが、年々クオリティが上がってますし、凝っている割にすっきり聞こえるアレンジは繰り返し聴くたびに発見があります。

こういう曲には珍しく、シングルのカラオケ音源だけでも抜群に気持ちが良い。OFF VOCALのトラックだけ集めたアルバム出ても買いです。


歌姫はこんな不安定なメロディをほぼ初見で歌いこなすというriya。幼いような成熟したようなこれまたポジション不詳の声。彼女自身が担当するコーラスはほぼ完全に造語という意味不明さ!

ことポップスに関してはもうeufoniusかそれ以外か、という軸しかないくらいに中毒。

フェイクジャズ、フェイクラテン、フェイクケルティック…いずれも取り入れず、基本的なフォーマットはポップス。

ジャンル横断という表現がしばしば安易で凡庸な結果を齎すのとは対照的に、ある枠をギリギリのエッジまで使う方が余程刺激的という好例ではないかと思う次第。


「フォノン」は昨年11月に発表された最新アルバム。

収録曲はシングルやサントラなどの音源と重複しているものが多いので初聴きトラックはあまりなかったものの、当アルバム初出音源が悉くナイスな上、既出音源とのバランスが気に入って半年間聴き続けています。

他のアーティストに提供した「ゆきなみ」「光のフィルメント」などを聴くと、曲の構造の不思議さだけでなく、作家&歌手としての基礎的な部分の強さも感じます。

提供楽曲のセルフカバーはこれからもどんどんやって欲しいものです。「ゆきなみ」は本当に何度聴いたことか…。


2012/05/08

【読んだどー】村山斉『宇宙は何でできているのか』

村山斉/著
『宇宙は何でできているのか 素粒子物理学で解く宇宙の謎』
(幻冬舎新書)


『南極点のピアピア動画』にシミジミと感動したので、余勢を駆ってベストセラーだと聞いたこちらを読了。多次元宇宙の話はもっと詳しく聞いてみたい!

…つか、ベストセラーかどうか、という点にほとんど興味がない…というより興味を持とうと思えないのはどうしたものか…。


2012/04/28

【読んだどー】野尻抱介『南極点のピアピア動画』

野尻抱介/著
『南極点のピアピア動画』
(ハヤカワ文庫)

日本における原子力推進の裏側のレポートに引き続きこれを読むのは、我ながらベストの選択でした。

一般人にとって科学技術とは夢がなけりゃいけません。

まぁここで描かれているような世界を夢と捉えるような人は、特殊なクラスタなのかもしれませんけど(笑)


しかし月への彗星衝突と放出物の影響を奇貨として、あれよあれよと宇宙飛行を実現し起動エレベーターの雛形を作り上げていく。その流れが、要職にある人々のボカロ愛でどんどん繋がっていく様は、実際あり得る近未来像かもしれません。

そこへ『歌う潜水艦とピアピア動画』、書き下ろしの『星間文明とピアピア動画』の「野尻節」ともいうべき流れが合流し、大団円へと進む。人間同士の幾分控えめなロマンスと、人間からボカロへの熱烈なロマンスを添えて(笑)

はー!面白かった!


えー。野尻節とかサラリと適当言いましたが、自分が読んだ『沈黙のフライバイ』『太陽の簒奪者』と通低するテーマがここにもあります。

それは「ある世界の矛盾が解消するのは、(その世界にとって)全き外部からの視点が発生したときである」とでも言うべき主題です。

恒星間航行が可能なほどの知性が侵略などという行為に及ぶはずがない。あるいは、恒星間航行は技術や知性に関わらず巨大なリスクと膨大な時間を掛けるものであり、そもそも侵略による利益でペイしない…といった前提に立ち、彼らからの視座を確保することで人類間にある矛盾を丸っと無化してしまおうという発想。

簡単に言えば「宇宙から見れば大した話じゃねーし」的なノリ。まぁ軽すぎると言えば軽すぎるかもしれません。

しかし実際例えば、宇宙からの送電が可能だったりすれば、電力とか確かに大した問題でもないわけで…。


いずれにせよ、これを読んで自分はボカロ曲を積極的に聴いてみようかな、という気分になりました(笑)これまでは楽しそうではあるけど、聴く「意欲」が沸かなかった…。

2012/04/17

【読んだどー】有馬哲夫『原発・正力・CIA 機密文書で読む昭和裏面史』

有馬哲夫/著
『原発・正力・CIA 機密文書で読む昭和裏面史』
(新潮新書)

日本の原発に関する基礎教養として読了。

現実というのは陰謀論で片付けられるものではないのだということが分かります。


それにつけても、原子力というのは60年前には確かに夢の技術ではあったのでしょう。はりぼての夢に過ぎなかったのだとしても。

しかし現状、こんな情勢だからこそ、夢の技術に経済的・政治的野心を掛けるみたいな人物が居ても良い気もします。

もちろん、夢とは常にその時々の現状との対比においてあります。

現行の原子力には夢も希望もあったものじゃない。その一点のみにおいても、国策とするには役不足も甚だしいと思います。

さて、次は何かSFでも読もうかなぁ。

2012/04/07

【読んだどー】宇沢弘文『自動車の社会的費用』

宇沢弘文/著
『自動車の社会的費用』
(岩波新書)

確かツイッターで推薦されていたのを見て、ダンディ坂野のコスプレでゲッツ&リード。

「社会的費用」とは、ある経済活動によって損なわれた市民の基本的権利(=思想・言論・信教・結社の自由+健康で快適な生活を営む権利)を保障するために掛かる費用のこと。

そして、社会制度は社会的費用がゼロとなるように設計されるべきとの前提で投資や資源配分を考えてみましょうというお話。

まずは新古典派経済学を批判します。


・経済学的主流である新古典派経済学は、個別の需給の総体としての均衡体系を経済の枠組みと捉える学問である
・資源が私有され(&私有されない資源は自由に使え)、経済主体が必ず合理的に行動し、その行動は時間的にも物理的にも阻害されず、純粋な競争市場が実現している…といったことを前提する
・新古典派経済学の枠組みにおいて、資源配分は効率的になされるはずである
・しかし問題がある
・需給均衡は理論的に整合するが、そもそも非現実的な前提に基づいており、理論的フレームワークとしては机上の空論である。前提条件と現実の齟齬は、主に低所得層への負担となって現れる
・低所得層に負担を強いる一方、所得配分の不平等化について対策が考慮されておらず、社会の不安定性に繋がる
・新古典派経済学の枠組みでは、累進性をともなう税収による負の所得税など、所得配分政策で平等を実現するのは困難である。需給均衡は動的で、最低所得水準を上げた分、価格水準の上昇に繋がるからである
・結果として、低所得層は市民の基本的な権利を保障されない


次に、新古典派経済学では考慮されていない「社会的共通資本」が同様の観点から如何に社会の安定に繋がるかを展開します。

・社会的共通資本とは、具体的には自然資本、社会資本(道路や港湾などインフラ)、制度資本(法制や金融制度など)など。
・人々にとって必需の財・サーヴィスであり、内容は時代と共に変化する
・それらの多くは、必需であると共に、代替可能性が小さい(供給弾力性が低い)ものである。「合理的でない」「損失が多い」などの理由で、おいそれと他の資源に乗り換えることが難しい。そのため価格弾力性も低い。市場経済の下では、所得における「生存に関わる消費」の割合が高い低所得層に負担を強いる類の資源である
・ゆえに社会的共通資本は、私有を認めず、市場では取引されず、社会的に管理される
(このような概念を、新古典派経済学の前提では考慮出来ない)
・社会的共通資本を、どれだけ、どのように使うかは、使用者が自由に決定できる(選択可能性)
・そのため混雑現象は不可避である
・混雑現象によって発生する損失が、限界的社会費用である。限界的社会費用を計算し、利益が最大になるように使用上のルールや制限(規制や料金など)を賦課する
・必需の財・サーヴィスを社会的共通資本とすることで、希少資源の配分プロセスに実質的所得分配の内在的安定性を確保できるということである
・このように社会的共通資本があれば動的な需給均衡の影響を緩和でき、所得配分政策も効果を発揮しはじめる
・以上のような理由から、社会的共通資本は社会の安定に寄与する


これらの前提をもとに社会的費用について考えます。

新古典派経済学に基づく個別の需給バランスの総体としての均衡体系においては、個別の投資の是非は

 費用 対 便益

として判断されます。それを


 費用+社会的費用をゼロに近づける(=市民の基本的権利を守る)ための追加投資 対 便益

と考えるべきだというわけです。

そうすれば、巷間競争市場こそ効率的なのだと言われているが、社会全体として観れば社会的共通資本の方が効率的なこともあるはずでしょうと。

その実例として、自動車を挙げたのが本書になります。

自動車と道路網は急速に発展して公共交通機関を駆逐した。自動車社会は便益をもたらしたが、それによって歴史的・文化的に成立した道々から人が疎外され、景観は損なわれ、自然環境が破壊され、市民は交通事故の増大などの損失を蒙った。他方で損失は自動車使用に関するコストに十分に反映されておらず、混雑現象を引き起こしている。

これら損失はすべて社会的費用であり、保障のためには道路の改修や技術革新など莫大な追加投資を必要とする。その費用を自動車の使用者に課せば、かなりの高額となる。
(人命や自然環境の被害は不可逆的なのでそもそも保障が不可能でさえある)

事前に社会的費用を繰り込めば、当然自動車産業や道路建設にかかるコストは増大しただろうが、そのことで公共交通機関や広く安全に設計された道路設計などに投資が促され、より安定的な社会を作りえたはずである、と。

さて本書は、具体的に便益と費用、効率性と平等性を考慮した資源配分・所得分配のあるべき姿の算出・決定方法などについては、ほぼブラックボックスのままで議論は進み、終わっています。

何故ならそのコンセンサスを取るのは神学論争にも似た困難さがあるからです。費用対効果は数字のマジックでいくらでも操作可能なので、議論は尽きることがありません。

しかし「市民の基本的権利」の方は、より容易にコンセンサスが取れるのではないか、という発想があります。費用対効果の綱引きは社会がある限り延々と続きますが、市民の基本的権利を守るコストは議論の余地がないであろうと。


本書は40年近く前の本ですが、市民の基本的権利、とりわけ生存に関する権利を根底におくという発想は、セーフティネットの基礎となる知見を述べたものとして普遍的な議論が展開されています。

安定的な社会を構築するハウツー本ではありません。つまり、先述した通り本書では資源配分と所得分配の決定プロセスや方法論については棚上げされています。

たとえば、本書同様に生存に関する権利を基礎に置きつつ、そこにアプローチしたのが「一般意志2.0」であるという読み方も出来るでしょう。

一般意志2.0が新自由主義と親和的であるのは、一般意志2.0が市場原理万歳を叫んでいるからではありません(当然ですが)。

私見では、新自由主義も一般意志2.0も、「基礎的な生存に関するセーフティネットを大前提とする」という要諦が共通しているからです。

その前提に立った上で、非効率や恣意性が不可避な人間の行動をどうにか制御して、状況を前に進めようという意味での、決定プロセスや方法論を論じているわけです。片や市場原理、片やデータベースといった形で。

市場にせよデータベースにせよ、大なり小なり効率性を志向する概念は、それゆえにむしろ切実にセーフティネットの構築を求めるものだと考えます。

2012/03/23

【読んだどー】岩井克人『貨幣論』

岩井克人/著

『貨幣論』

(ちくま学芸文庫)


反リフレ派ってこの本読んでハイパーインフレーションまじガチやべぇ…てなった人の成れの果てだったりして!

まぁそれは冗談として、基本的にはサクサク読めて「まぁそうですね」と頷いて終わる本。冗長な表現は幾分読みづらい。

ずっと未読のまま放置していたのを、サクッと。…とはいえ、自分にとっては知的興奮よりは復習の趣が強く、いまいち読書はかどらず。漫画などに寄り道しつつ読了。


そもそも為替や債権市場のことは考慮せずに、単一の貨幣の本質論を追う…ゆえにメインとなる危機論が基軸通貨にしか適用できないという辺りが、流石に時代掛かって見えます。

本質論という名の全体論への欲望というか。

話自体は面白いんですが、どうにも食傷気味…。

2012/02/28

【CD聴くべ】ファリャ作品集(メナ&BBCフィル盤)

ファリャ:
1. バレエ音楽『三角帽子』
2. 交響的印象『スペインの庭の夜』
3. 管弦楽のための組曲『讃歌』

 ジャン=エフラム・バヴゼ(ピアノ:2)
 ラケル・ロヘンディオ(ソプラノ:1)
 BBCフィルハーモニック
 ファンホ・メナ(指揮)
(Chandos)

偏愛する三角帽子全曲に新録音降臨。ありがたや~。

ファンホ・メナはジャナンドレア・ノセダの後を継いでBBCフィルの指揮者になったスペイン人指揮者。

BBCはいろいろオケを抱えていてよく分からないので、指揮者の名前でなんとなく判別。ああノセダが居たとこね~的な。これからはメナが居るとこ。


さて本盤。

すっきりした録音、ニュートラルな音色で技術的に安定したオケ、粘ることはないが細部のニュアンスにこだわりを見せる指揮者。

全体はシャープにまとめつつ、ソロ楽器だけがフレーズの切れ目でグッと表情をつけたりするのがダンディ&セクスィー。

CHANDOSで評価の高いバウゼを迎えての「スペインの庭」&「讃歌」という収録曲もグー。

ファリャの最新録音ではなかなか満足度の高いものが出ませんでしたが、これは極上です。自分の中でようやくデュトワ&モントリオールso盤が過去のものになった気がします。

ファリャ好き(つか三角帽子が異様に好きなだけともいう…)の自分の渇(笑)を癒すに十分な新譜でした。ヘビロテ。


そして、現在勇者KDMが装備している素晴らしいヘッドホンで聴くとCHANDOSの新旧録音の優秀さを実感。感服。

これまではこのレーベルはちょっと団子な録音だと思っていたけど、高音が突き抜けたことで妙に迫力のある音になりました!ヒーハー!

2012/02/22

【読んだどー】佐藤優『日本国家の神髄 禁書『国体の本義』を読み解く』

佐藤優/著
『日本国家の神髄 禁書『国体の本義』を読み解く』
(扶桑社)

課題図書読了。ふー。

本書の骨子自体は結構単純で「超越的なものを戴くことで資本主義を超克しよう」というものです。また全体を貫く論旨は佐藤氏の『私のマルクス』とも通低しています。

ここで資本主義とは「アトム(原子、個)」を基礎とする弱肉強食の殺伐とした世界観とほぼ同義とされています。対して、超越的存在のもとでの紐帯(モナドと表現されたりしていますが)で以って寛容と多元性を回復するのだ、というわけです。


ただ、自分にはその戦略の有効性に疑問があります。

イエスだろうと皇統だろうと超越的なるものとは常に「なんか知らんがそうなったもの」です。つまりは歴史的なものだということですが、未来志向の視点からは以下のように言い換えられます。

1.「これからどうなるか」を指示したり保証したりするわけではない
2.また、これからどうなっても、超越的なるものはあるがままにあるだけ

これらは長所にも短所にもなります。長所については、きっと本書で論じられている通りなのでしょう。

自分にはこれが短所として、常に後出しジャンケンで勝ち続けるような代物に思えてなりません。

過日、「天皇陛下の御為」「国家のため身命を賭して」「国体を護持し奉らん」とのお題目を掲げつつ破滅に突き進んだ日本。後日、識者は曰く「それは国体について正しく理解していなかったからに過ぎぬ」と。

これは「良かったことは良かったね。悪かったことは悪かったね」という、上から目線ならぬ後から目線によるトートロジーでしかないように思えます。これでは国が百遍転覆しても、国体の正しさはなくならないことになってしまう。

あるいは、だからこそ良いのだ、という発想なのかもしれません。デフレだ円高だと戦々恐々とする一方、皇族に対して敬意みたいなものを覚えたり、寺社仏閣に行ってちょっと気分良かったりというのは、こんな自分にも自然とある感情です。いわんや震災後の人心をや。

しかし、それでもやはり破滅を未然に回避出来ないのでは意味がないとも思うわけです。少なくとも数十年前に日本は破滅的状況を回避出来なかったし、つい前年も原発を安全に運用し切れなかった…それが現実なわけです。


ところで、資本主義をベタに受け入れるのではなくカウンターを持つべしという議論は正しい問題意識で、反論の余地も反対する理由もありません。というか、ありふれた話でさえあります。

「日本の危機だから、今また主張するのだ」と本書からは読めますが、明治以来この種の議論が絶えたことなど一度もないと思います。

事程作用に反復されている以上、疑問に思わずにおれません。(トートロジーと言わぬまでも)単なる無限ループで、故にこそ危機的なんじゃないのか、と。

というのも、「バラバラなアトムを、超越的存在(国体)で縫合する」という一見真っ当なあらすじ自体、モダンとポストモダンを巡る無限ループそのものであると考えるからです。

具体的な分析はここでは端折っちゃいますが、ざっくり言えば「超越者は如何にして超越的か」という構造を内面化したものがアトムです。

ポストモダニズムは、モダニズム(=存在とはなにか)の分析とその抽象化・普遍化の果てに「超越<論>的なもの」を見出します。佐藤氏の言う「アトム」は「超越<論>的なもの」とほぼ同じことを言っていると思います。

なにゆえ「論」と表現されるのかといえば、あらゆる特殊的・具体的な「超越者」を包含した上でも機能するほどに「強い」概念だからです。

アトムというのは、国体やらイエスやらという超越的なものと比べたとき、単純な力関係の意味で圧倒的に強く「超越しているもの」であり、超克出来ません。

資本主義は常に既に特殊的・具体的世界の「外部」にあると表現されるのは、このことでしょう。

そもそも資本主義と相容れる「世界」などどこにも存在しないのです。にも拘らず、資本主義は世界中を席巻する。つまり国体が確立されていようといまいと、資本主義には関係がありません。

アトム(≒超越<論>的なもの)とは、「超越」構造における倒せないラスボスです。ラスボスが倒せない以上、超克の物語としては永遠に完結せず、無限ループの一丁上がりというわけです。


右翼・左翼問わず「資本主義最強。でも弱肉強食でえげつない。ゆえにバッファあるいはセーフティネット必須」という認識が、下世話なレベルで、前提として共有されていると自分は考えます。

更に、両者共に抽象的なレベルにおいて「超越」という構造を共有しているのではないか、と思います。

そのうえで分類すれば

・右翼は「超越的なもの」のもとへの滞留を志向する
・左翼は「超越<論>的なもの」の理論的超克(超越論の超越?!)を志向する

という差異を持つと考えます。

現実的な右翼は夢見がちな左翼に対して常に勝利し、左翼は倒せないラスボスに挑み続けることで永遠に戦い続ける…。

本書でも「まともな左翼がいないから右翼が育たぬのだ」と明言されています。つまり「超越」構造における左右両翼(超越論と超越)は堂々巡りだということです。

佐藤氏は「堂々巡る」ことが大事なのだとお考えなのかもしれませんが、その徒労感こそがファシズム、更にはナチズム(荒唐無稽だがハッキリだけはしているw)の呼び水になるのではないか…。自分はせっかちだからか、そのように思えてしまいます。


かといって無論、資本主義原理主義/至上主義というのは成立し得ません。資本主義それ自体は行動原理にはならぬからです。

そこで自分は以下のような作業仮説を立てます。

・行動原理としての思想は、右翼/左翼の論理しかない。
・だが双方共に実は構造としては相似形であり、二者択一では構造的特徴は持ち越し続けることになる(=堂々巡り)。
・ゆえに、端的に別の構造による補完を必要とする。
・具体的には新自由主義。新自由主義は、右翼/左翼の置換ではなく補完として発想されるべき。
・新自由主義を市場原理主義と看做すのではなく、最低限の社会保障を構造的に確保することと考え、堂々巡りの層との二層構造として社会を設計する。

自分は国体ではなく、東浩紀氏のデータベース論や一般意志2.0により説得力を感じているので、こういう作業仮説になります。

一般意志2.0などの議論は、東氏自身明言している通り、新自由主義、リバタリアニズム、小さい政府論etc..と近しい発想です。同時に、「超越」構造の置換や超克を目指すものではなく、補完を目指すものです。

東氏は直接民主制や集合知による政策決定を主張したことは【ない】という点がとても重要です。

実際、新自由主義は、ベーシックインカムでも負の所得税でも、ともかく最低限の生存の保障を【裁量ではなく構造として】確保しましょう、という以外の行動原理を持ちません。

「思想」=「行動原理となるもの」と厳密に定義づけたとき、「思想」としての新自由主義は「最低限の社会保障を構造的に持たぬ市場原理主義を禁止する」というの「禁止の言葉」に言い換えることが出来るでしょう。

更に保障を積み上げるかどうかさえも自由なのだ…というか、それを議論するのが思想であり政治である…仮に堂々巡りであっても…ということでしょう。

少なくとも新自由主義は、最低限を越えて社会保障を整備することを【禁じる】ことはないわけです。

…まぁ思いつくまま書き綴りましたが、単純にひとつ分かったことは、どうやら自分は、神話にラノベやクラシック音楽の元ネタ以上の興味は持てそうにない(というかその範疇においては超興味がある)ということでしょうか…。どうしても単なるフィクションとしてしか受容出来ませんでした。

2012/02/08

【CD聴くべ】ショスタコーヴィチ交響曲全集(コフマン盤)

Kofmanshostakovich

ショスタコーヴィチ交響曲全集
Disc-1
・交響曲第1番ヘ短調作品10
・交響曲第6番ロ短調作品54

Disc-2
・交響曲第2番ロ長調作品14『10月革命』
・交響曲第12番ニ短調作品112『1917年』

Disc-3
・交響曲第3番変ホ長調作品20『メーデー』
・交響曲第15番変ホ短調作品144

Disc-4
・交響曲第4番ハ短調作品43

Disc-5
・交響曲第5番ニ短調作品47『革命』
・交響曲第9番変ホ長調作品70

Disc-6
・交響曲第7番ハ長調作品60『レニングラード』

Disc-7
・交響曲第8番ハ短調作品65

Disc-8
・交響曲第10番ホ短調作品93

Disc-9
・交響曲第11番ト短調作品103『1905年』

Disc-10
・交響曲第13番変ロ短調作品113『バービー・ヤール』

Disc-11
・交響曲第14番ト短調作品135『死者の歌』

 タラス・シュトンダ(Bs)
 イノア・タマール(Sp)
 チェコ・フィルハーモニー合唱団
 ブルノ・フィル合唱団
 ボン・ベートーヴェン管弦楽団
 指揮:ローマン・コフマン

 録音時期:2002~2007年,
 録音方式:デジタル(セッション)

バラ売りで途中まで集めていたものの、心が暗黒面に落ちたときに処分していたコフマンのショスタコ録音。

しかし昨年暮れに廉価限定盤として再発されたため、めでたく再会しました。しかもすべてSACD化!

改めて聴くと本当に素晴らしい内容です。

大雑把にいって現代音楽マナー且つ室内楽的発想による演奏で、このようなショスタコ演奏はなかなかありません。

マリス・ヤンソンスの全集よりもスタイルの統一感があり、進行中のヴァシリー・ペトレンコ&ロイヤル・リヴァプールpoのチクルスと比してもより知にバランスが傾いた演奏です。

ピアニシモの音量レベルはポータブル環境にはちと厳しいくらいに低いですが、録音は極上。9番にややノイズが乗っているけど、許容範囲。

ボン・ベートーヴェン管弦楽団は「全員うまい」という類のオケではありませんが、よく練られています。どの曲も聴くたびに感嘆を禁じえません。

透明感のある弦楽合奏を中心に構築し、そこに管打楽器群が過不足なく絡みます。

その素晴らしさは、例えば第5交響曲終楽章におけるパート間バランスなどを聴けば瞭然。

凡百の演奏&録音では金管打楽器の音量に押しつぶされてしまう楽想の絡みが綺麗に出てきます。

いろんな演奏に触れてイメージが出来ている曲であれば、どれもコフマン盤の新鮮さが伝わると思われます。

一般的なクラヲタ(なんだそれ・笑)であれば、第5だけでも聴く価値あり。





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